第弐話 薄明の双姫
――半年前――
新芽の香りを乗せた春風が、寄り添う二人の少女達の周りを駆け抜けていく。
「……きれい!」
顔をのぞかせたばかりの朝日の光線から顔を守るように市女笠をかぶった少女、霞桜が興奮して声をあげた。霞桜の手を引く姉、ほたるがその様子を微笑ましそうに眺めている。
姉妹は豊原の里を一望できる里外れの丘に朝日を拝みに来ていた。
「ああ。綺麗だ。……あんたの目が見えなくなる前に、少しでも多くの美しいもの見せてやりたい」
霞桜の口角が微かに上がった。ほたるはこの里の領主の長女という立場にありながら、
「――いつか、いつか旅をしたい。 姉上や黒耀兄上と」
思わず本音と共に涙がこぼれ出る。泣くつもりなんかこれっぽっちもないのに。
「泣くな。……約束する、旅しようこの美しい日の本を皆で」
ほたるは柔らかく儚げな妹の身体を抱き寄せた。
「ええ、ありがとう」
霞桜はほたるの腕の中で柔らかく微笑んだ。
――だが、この約束が決して叶わぬことを二人は承知していた。
「……櫛名田媛」
「この日がついに来てしまったな」
今日は櫛名田媛命の奥入りの
これから先、里の中であっても、今のように歩き回ることは出来ない。ましてや二人揃って旅に行くなど、もう叶わないだろう。どちらかは永遠に社の中で、もう一人はそれに仕える者として一生を終えなければならない。
「……姉上。姉上は夢を持っている? 大きくなったら、もしこの里から離れられたとして何をやりたい? 何になりたい?」
ほたるは目を閉じた。この里には櫛名田媛をはじめとする巫女たち、社に、神に仕える者たちの美しい日なたの世界と対象に陰の世界も存在する。――暗殺者たちだ。
里の名家の子供たちは幼いころから男女問わず暗殺術、追跡術、逃走術に至るまでを叩き込まれる。兄の黒耀、そしてほたるも例外ではなかった。ただ、陰の世界が里にあるというこの事実を里の民は知らず、病弱で目の悪い霞桜もまた、血に染まった暗殺者の存在を知らない。
ほたるはそっと妹から腕をほどき、己の血塗られた両手を見下ろした。
(ついこの前だ、初めて命のやり取りをしたのは――友人をこの手で殺したのは……。人の命を奪ったこの手で、いったい何をしようというのだ。血塗られた道を行く自分の後ろ姿しか、思い描けない……せめて、霞桜にだけは幸福な家庭を、希望を持って生きてほしい。小さな幸せが溢れる一生を過ごしてほしい。櫛名田媛なんかにならずに)
ああ、そうだ。自分が櫛名田媛になれば……。
「姉上?」
「……すまない。考え事を」
「考え事ですか。――私はお母さんになりたい。それに街ってものも見てみたい。だけどね、姉上。私は一番欲しいのは姉上との時間。毎夜、姉上がどこに行っているのか私は知らない。ただ夜明け前に戻ってくる姉上からいつも、温泉の香りと山の匂いがしてた。なのに、この頃はその匂いにもう一つ別の匂いが加わっている。――血の匂い。それもたぶん人間の」
「……」
「姉上、約束してください。私より先に死なないで、こんな病弱な妹なんかよりも。姉上だけは幸せに長寿を全うして。……ええ、矛盾しているのは分かっています。一緒にいたいと言いながら、置いてゆけと言っている。――でもどちらも私の想いだと思う」
霞桜は血がにじむほどに唇をかみしめた。
天真爛漫な姉が社の中に納まるはずがない。いや、納めてはいけない。だから私が櫛名田媛に……。
「安心しろ。ずっと一緒だ。――どこへ行こうと、死が訪れようと」
姉の言葉に背筋が冷えた。
(死ぬ気だ。私が死んだら、姉上は……)
「そ、そこまではやめ……」
妹の言葉をほたるは遮って、優しく微笑んだ。
「そろそろ帰ろう。皆が心配する」
砂浜の中にぽつんとそびえた小さな岩山を、真昼の太陽が焼きつけるように照らしていた。岩山の上には粗末な鳥居と祠がある。一羽の鷗が鳥居にとまって、物珍しそうに首をかしげながらこちらを見下ろしている。鷗からしたら何十人もの色とりどりの狩衣で正装した出雲の神官たちと、白衣と緋袴に身を包んだ巫女たちが自分に向かって扇状にひれ伏しているように見えるのだろうな、とほたるはぼんやり考えていた。
(だが、あたしたちが伏している相手はあんたじゃない。新しい櫛名田媛命だ)
朝の散歩から帰ってきた二人を待ち受けていた運命に選ばれたのは、長女のほたるではなく、長くは日の光を浴びられない白子の霞桜だった。霞桜は今岩山の向こうの海でたった一人で
(……っ)
何もできなかった。実の姉なのに。霞桜が神域の外の出るのはこれが最後になるだろう。
「……そんなのどこの誰が耐えられるというのだ……」
「ほたるの君」
吐き捨てたほたるを隣に伏している神官が小声で咎めた。
厳かな銅鑼が鳴り響き、禊がつつがなく終わったことを知らせた。鳥居の上の鷗が銅鑼の音に驚いた様子で舞い上がり、海と晴れ渡った空の間に消えていった。
春とはいえど灼熱の太陽に焼かれた浜に四半刻(約三十分)の間、ひれ伏していた者たちから、痛いほどの安堵が伝わってくる。
(あいつ、大丈夫だろうか)
人の感情が、さっぱり分からない自分に比べ霞桜はそういった類のことに長けている。他人の感情に揺らされて、高熱を出したことも、一度や二度ではない。ましてや今回は自分のことで人がどうのこうのなっているのだ。このことで熱など出さぬと良いが。
周りに合わせて立ち上がると、櫛名田媛がかがんで巫女の差し出す神具の器に砂をすくい入れているのが神官たちの肩越しに見えた。あんな儀、あっただろうか。まるっきり覚えていない。だからだろうか、己のせいだろうか。櫛名田媛に妹が選ばれたのは。不出来な姉である自分のせいなのだろうか。自分が巫女の稽古からのらくりと逃げ回り、殺人剣ばかり錬磨していたから巫女の頂点に相応しくないと判断されたのか。
(結局、あいつを苦しめている根源はいつだって私だ)
助けるとか、約束するとか言いながらも解っていた。ただ気付きたくなかっただけなんだ。いつだって、いつだって。
いつの間にか一行は出雲大社の神域を櫛名田媛を先頭に進み神域の最奥の
「また、心ここにあらずと言った顔をしていらっしゃいますよ。ほたるの君」
ほたるは先程の浜でもほたるを諫めた神官に現実に引き戻された。
櫛名田媛が浜から運んできた砂を大社に奉納した後、出雲の神官、巫女一同での参拝をもって、第八十九代櫛名田媛命の奥入りの儀は無事終わりを迎えた。
ほたるはただ茫然として、千早を羽織って社に足を踏み入れた妹の背を見送った。新たな櫛名田媛命を見届けたと言わんばかりに太陽が雲に隠れ、空は瞬く間に鼠色に覆われた。
微塵も動かなかったほたるも半刻(約一時間)すぎるとようやく社に背を向けて、社の裏手に隣接している館を繋ぐ渡り廊下の下を抜け、豊原の里の中心にあたる山に囲まれた集落に続く竹林の中の小径に消えていった。
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