綿毛の先の暁

汐坂朱雀

第壱話 水面の夕日

 霞桜は床に臥しながら一人の少女に思いを馳せていた。

(ほたる姉上……)

 霞桜かすみざくらには双子の姉がいたが、春に姿を消して以来、姉を見た者はいない。豊原の民が、神がお怒りになって、ほたるをさらったのだと噂していることは、霞桜も重々承知していた。そしてその理由が霞桜こと、櫛名田媛命くしなだひめのみことの双子の姉だから、ということも。しかし、霊眼の持ち主である櫛名田媛にとって、この件に神が絡んでいないことは火を見るよりも明らかだった。だが、齢十四のお飾りにすぎぬうえ病弱な櫛名田媛の言葉が誰かに届くことなどはなく、七日間の里を挙げた捜索が行われた後、この件は神隠しとして収まり、季節は秋へと移り変わった。


 渡り廊下から微かな足音がこちらに近づいてくる。――巫女ではない。耳がそう告げている。

 人はそれぞれに目の良し悪しがあるように耳にも良し悪しがあるものだ。それに目が悪いものはそれを補うように耳が良い場合がある。霞桜がそれだ。霞桜は白子アルビノなのである。生まれつきの白子であるため、視力が弱く、進行性の病を患っている。瞳が真紅であるのを除けばあとは爪先から髪の先に至るまで光を透かすように白い。古今東西で白子は神の使いとされているし、霞桜もここ豊原の里の社である出雲大社の現人神・櫛名田媛になったのが長女であるほたるの君ではなく、妹の自分だったのは、ほたるが白子ではないからだと思っていた。

 外で人の声がして、霞桜は我に返った。……客人のようだ。

 「……黒耀こくよう殿がお見えです。櫛名田媛命」

 櫛名田媛付きの巫女が、寝屋の襖を軽くたたいた。

 「お通しせよ」

 思いがけぬ訪問に声が弾まぬようにするので精一杯だった。襖が滑る音とともに記憶にあるより大人びた声がした。だが少しくぐもっているのは記憶にあるものと変わらない。

 「ご無沙汰しておりました。お体にお変わりありませぬか」

 霞桜は、今はもう何も映さぬ瞳を開いた。

 「おかえりなさい。――黒耀兄上」

 黒耀の問いには答えず、霞桜は人払いした。春に別れた時よりも背が伸びた兄が枕元に腰を下ろす気配がする。

 「体、大丈夫ではないのだろう?」

 霞桜の細い髪をなでながら、黒耀が再び聞いた。先ほどのお付きの巫女の前での口調とは異なり、それは兄から妹・霞桜に向けた、素の言葉だった。

 「目も見えなくなったのではないか」

 「…………」

 兄はいつもこうだ。その洞察力の前では隠し事一つ出来ない。

 「……ええ、見えなくなってしまいました。人影ですら。ですが、以前より霊眼も想像力もよくなった気がします」

 そうだ。見なくとも今の兄の姿を容易に想像出来る。顔の右半分が傷で覆われていてもなお人目を惹く端正な顔を相変わらず覆面と前髪で隠しているのだろう。声は以前より低くなってはいるが、くぐもっているから間違いない。ただ、以前より背が伸びて、雰囲気も大人びている気がする。それに――。

 「髪を切っていないわね。ですが、よく手入れしているのでしょう?」

 「うっ……」

 次は黒耀があまりの図星に押し黙る番だった。

 「何故、そんなことまで……いや、当たりだ。――早速だが、本題に入ろう。ほたるの行方についてだがほたるは今、美濃にいる」

 唐突な兄の言葉に、霞桜は驚きを隠せなかった。半年間何の便りも、噂もなかったあの姉が。

 「見つけられたのですか。兄上は、会えたのですか姉上に。いま姉上は……」

 まくしたてる妹が落ち着くのを待ち、黒耀は口を開いた。

 「ほたるには会えた。ただ、今のほたるは室町殿の敵なのだ。僕は春から室町殿に仕えているが、正しくは家臣ではない。こちらとの約束を守ってもらう代わりに、刺客として室町殿の依頼を受けているんだ。そしてこの契約最後の依頼が、とある姫君の暗殺。しかし、ほたるはその姫君に便女、いや近習として仕えている。だから僕が姫君を暗殺するために美濃へ行ったら……そなたも知っての通りほたるは里随一の二刀流の使い手だ。暗殺者としては幼いが、ほたるに刀で勝てるものを僕は知らない。だがそれでも、美濃の姫君を討たなければ室町殿との約束は果たされない」

 霞桜は混乱していた。今、姉は幕府や兄、しいてはこの里の敵ということ。――兄は姉を認識している。ならばきっと、姉も兄のことを覆面を着けているとはいえ、気付いただろう。ではなぜ、兄を拒むのだろう。なぜ未だにその姫君の許にいるのだろう。――そもそも里から消えた理由は何だろう。家族や里よりも大切なものが姉にはあるのだろうか……。

 「ほたる姉上は、兄上に何か言っておられましたか」

 寝床から畳に流れた妹の白く波打っている長い髪が西日を受けて金色に輝いている。黒耀はただただ切なくなった。

 「僕も最初はほたるだと気付かなかった。少年のなりをしていたから。ただ、ほたるは最後まで僕だと気付かなかった。覚えていなかった。僕のことも自分が……ほたるだということも」

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