第22話『いざ、勝負』

 黒の世界に連立している茶色の柱たち。それが樹だと言うことは既に知ってはいたが、前方の二本が不自然な高さから上に伸びていた。その不自然に伸びている前に惺流塞が立っているということを早瀬は瞬時に理解する。


 問題は、そこからどういう手段で惺流塞が攻めて来るのかということ。

 単純に力量で比べれば、色を失ってからでも稽古を怠らなかった早瀬に分はあるだろうが、だからと言って迂闊に攻めて行くほど愚かでもない。相手の出方を見ようと注意していれば、惺流塞は言った。


「後悔しても遅いからな『早瀬』!」


 最終通告。何かが来ると判断し、思わず緊張に表情が厳しくなるのを自覚する。


「出でよ『幻雲』!」


 刹那、早瀬は目を見張った。黒と茶色の世界に灰色が滲み出して来た。

 まるで入道雲が生まれるかのように黒の世界に噴き出し膨らむ灰色。おそらく惺流塞の眼の前に出現したと思われるものに眼を奪われる。


 惺流塞が慌てて逃げない以上、それは惺流塞によって呼び出されたもの。術者が使う『召喚』であることを理解する。

 絵師になったとは言われたが、まさか術者になっているとは知らなかった。


 驚きと同時に感心する。その間にも噴き出された灰色は蟷螂かまきりの卵のような質量と質感を持って伸縮を繰り返した。例えるなら眼に見えない手が粘土をねて何かを生み出そうとしているかのように、何かの形を作り出して行く。


 とても不思議なものを早瀬は眼にしていた。それは人の形をしていた。頭はあるが顔はなく、体はあるが着衣はなく、腕はあるが指がない。

 それでもそれが、『幻雲』と呼ばれたそれが、右手に杖のような棒状の物を持っていることは分かった。

 注意をするべきは惺流塞から『幻雲』へと移行する。


「あの者の動きを止めろ」


 怒りを滲ませた命令が発せられ、『幻雲』が応じる。口など見えないのに一体どうやって声を発生させたのか? とささやかな疑問が過ぎった瞬間、『幻雲』が一気に間合いを詰めて来る。


 心臓が縮み上がるような悪寒と供に刀を頭上へ掲げると、雲のように柔らかく、泡にも似て衝撃の一つもないように思われた一撃が、聞き間違いようのない金属の激突音と重い衝撃と供に早瀬の腕を痺れさせた。


 思わず眼を見張る早瀬。予想外の重い一撃もそうだが、何よりも早瀬を驚かせたのは、『幻雲』と早瀬が互いの武器によって接触した瞬間、一人の山伏姿の男が現れたことだった。


 身に纏った泡が吹き飛ばされ、その下から人が一人、現れたのだ。

 色を失ってから初めて見た人の顔。厳しさの中にどこか達観した空気が滲む灰色の瞳が早瀬の眼を射抜く。


 体が震えた。戸惑いと恐怖と、感激のために鼓動までも早くなる。


「――っや!」


 ギリギリと岩のように厳しく静かな表情のまま押さえ付けて来る『幻雲』の錫杖を大きく右に跳ね除ける。そのまま右肩から左脇腹までを袈裟懸けに斬り付ければ、幻雲は弾かれた勢いを殺さず左足を軸に左回転していたため、紙一重で躱された。


 躱されたと理解した瞬間、左側面に悪寒が走る。

 考えるより先に柄を上にして縦に刀を構えて体の左に構えると、刹那の時を刻んで、錫杖が唸りを上げて飛んできた。


 骨にまで響く衝撃に一瞬息が止まる。踏ん張ろうとした右足が滑って流れる。自ら右へ逃げて『幻雲』との距離を取り、正眼せいがんに構えて止めていた息を大きく吐く。


 視線の先で幻雲ははすに構えて立っていた。その顔にはおごりも侮りの表情も皆無。ただそこに立っているだけで、早瀬は冷や汗を流していた。圧倒される威圧感によるものか、存在していながら存在感を感じさせない異質さによるものか早瀬には判断出来ない。


 一瞬、「これは夢なのではないか?」と言う錯覚に陥る。

 黒の世界。連立している木々の茶色。その中に佇んでいる山伏の男。唯一はっきりと眼の前に存在している人間。いや、人間ではないと言うことは分かってはいるが、早瀬にしてみれば人の姿を取っていればそれだけで十分人間だった。


 そんな『幻雲』の、威圧感を兼ね備えながら存在感を与えない矛盾した空気が、早瀬の現実感を薄くしていた。だが、左腕に残る痺れが実在していることを主張している。


 これが見えているからいいものの、もしもごろつきたちのように気配だけで相手をしなければならないとなっていたなら、きっと初めの一撃で終わっていたことだろう。

 そう思うと見えることに感謝すると同時に、改めて見えないことは恐ろしいことだったのだと認識する。


 『幻雲』が静かに腰を下ろして構える。前傾姿勢になったと思った瞬間、再び早瀬との間合いが詰まる。

 早瀬は見えることに感謝した。どれだけ強くとも、見えれば何とかなることもある。何も分からずに倒されることだけは避けられることに感謝する。


 『幻雲』が大きく右足を踏み出して錫杖を突き出して来る。左足を大きく下げて体を開いて躱す。即座に引かれる錫杖を眼で追うが、すぐさま鋭い突きが襲い掛かってくる。

 後退しながら左右に体を捻って躱し、時にはしゃがみ、足元を狙って来たものを叩き伏せてやり過ごす。うまく躱したつもりではいるが、いかなる回転が掛かっているものか、触れただけでも着物の袖が引き千切られて行く。


 正直、躱すだけで精一杯だった。下手に受け止めようとしたり弾き返そうとしても、逆に『幻雲』の突きの回転によって刀身が弾かれてしまう。

 それでも早瀬は致命傷を避けるように避けていた。避けながら間合いと呼吸をはかる。


 いつまでも逃げているだけではどうにもならない。攻めて出なければならないのだ。

 何度目かの突きをやり過ごし、『幻雲』が錫杖を引いた瞬間踏み出す。直後、更に早い突きが襲い掛かって来るのを前転して躱し、がら空きになっている左側面に抜け出る。


 好機!


 脇腹を横断する横薙ぎの一閃を放とうとして、本能的に左側頭部を守るように刀身を掲げれば、空気を切り裂く音供に、金属音の火花が散った。

 早瀬の一撃よりも早い『幻雲』の横薙ぎの一撃は、狙い違わずやって来た。


 片膝立ちの姿勢が悪かったものか、勢いを殺せず吹き飛ばされそうになり、踏ん張ろうとするも思考を切り替え、押されるがままに体を流す。刀ごと右手を突き、体を倒して起き上がる。起き上がった眼の前にあるのは『幻雲』の大きな背中。


 後ろから斬り付けることに、騙まし討ちをしているような錯覚。後ろめたさから躊躇いが生じ、動き自体に一瞬の遅滞。右上から左下に掛けての袈裟懸けの一刀が、真下から振り上がって来た錫杖によって勢いよく弾かれる。右肘から先が刀ごと飛んで行くような衝撃に正直動揺を隠せない。蹈鞴(たたら)を踏んで後方へ回避。直後、鼻先を下から上へ錫杖が通り過ぎて行く。それこそ反射的にっていなければ顎を取られていた。逃げ遅れた前髪の先が千切れて行く感触に寒気を覚える。振り切った先で金環が涼やかな音を立てていた。

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