第3話『惺流塞』

 その座敷は絵に埋め尽くされていた。

 明り取りにもなっている、縁側に接している障子以外の残り三面に下げられている色とりどりの風景画。墨だけで描かれている水墨画。畳の上に無造作に散らかしているように置かれている下書き。それすらも見た者が眼を離せなくなるほどの魅力があった。中でも、灰色の鼠はまるで生きているかのような躍動感があり、古木ですら瑞々しさが際立ち、無数の絵の中にあって眼を惹きつけるほどに際立っていた。


 そんな絵に囲まれる形で、一人の青年が立てた画板に向かって筆を動かしていた。

 年の頃は二十歳前後。表へ出ることがないのか、普通の男より色白な肌。冷たくも見える涼しげな目元に通った鼻筋、不愉快げに引き結ばれている薄い唇。艶のある漆黒の長い髪は結ばれることなく背中と前へ流され、緑に茶色と黒が混じった鶯色の十徳じっとくを、灰色の着物の上に羽織り、濃い鼠色の袴姿の青年は、片膝を立てながら画板に向かっていた。


 その傍には三つの水の入った壺と、様々な色が溶かれている十一個の小皿が並べられている。

 静かな空間だった。画板の上の紙には一羽の鷹が描かれていた。

 今にも飛び立ちそうなほど精密に描かれた翼。覗き込めば自分が映っていそうな光の入った瞳に、獲物を引き裂かんばかりの鋭い嘴と爪。

 突然目の前に突きつけられたならば、十人中八人は本物と見間違えること確実な仕上がりに、しかし青年の顔には満足とは程遠い不愉快な表情が浮かんでいた。


「気に入らない」


 殆ど唇を動かさずに、ぼそりと吐き捨てる。

 とても精巧に描かれているにも関わらず、一体何が気に入らないのかと聞いた者は皆思うだろう。


 だが青年は、良く見れば自身の絵に対して不満を抱いているわけではないようだった。

 青年の冷静そのものと言える冷たい視線は、鷹を通り越した何かを見ていた。


「この二年で手に入れた物は二つだけ。肝心のあいつの情報もなければ、他の奴らの気配もない。俺はいつまでこんなものを描いていなければならない?」


 青年は奥歯を強く噛み締めて怒りを滲ませた。

 青年の中には隠しようがない怒りがあった。苛立ちと、焦燥感があった。思い通りにならないことへ対するもどかしさに筆を握る手が震えていた。


「どんなに巧く描けたとしても、本物には到底敵わない。あいつの色を取り戻し終えるまでの償いで描いてはいるが、一体いつになったら全てを取り戻せると言うんだ?」


 紙の中の鷹を射殺さんばかりの眼で睨みつける。


「俺だって分かってはいるんだ。この二年間毎日毎日思って来た。こうやってただ絵を描いているだけでいいのかって。だが、これも修行の一つだからと自分に言い聞かせて来た。

 それなのに! 奴らは姿を現さないし、あいつの情報も入って来ない! 俺は一体何をやっているんだ?!」


 もしも鷹が本物であれば、青年から発せられる怒気にてられて慌てて飛び立っていただろう。怒りに体を震わせて、青年は筆が折れそうなほどに強く握り締めた。そのときだった。


トントン


 遠慮がちに青年の正面にある襖が小さく叩かれた。

 ふと我に返るように、顔にまで出ていた感情を消し、不愉快そうな表情だけを浮かべて青年は短く言葉を発する。


「入れ」


 それを合図に襖が静かに開けられた。

 少しだけ開けられた襖の間から、初めに現れたのはもちもちとした大福が二つと、淹れたての緑茶の入った湯呑みの乗った盆だった。

 その後に入って来たのは年の頃は三歳。黒髪をおかっぱの形に切り揃え、後頭部に赤い布紐をつけた、ふっくらとした頬にくりくりとした大きな眼の、見る者に和みを与える容姿の女童だった。

 女童は鞠模様の描かれた鮮やかな赤い着物を着ていたが、それがまた良く似合っていた。


 女童は座敷へ入ると座り直し、両手で襖を閉めてから盆を持ち、危なげなく静かに青年の隣まで進んだ。絵を踏まないように気を付けながら盆を置くと、青年は絵筆を洗いながら素っ気無く尋ねた。


「何か見付かったか、小珠こだま?」


 女童―小珠は、訊ねられた瞬間、笑顔を見せれば愛らしいはずの顔に、申し訳なさそうな落ち込んだ表情を浮かべた。

 それを見て、青年は小さく息を吐くと、落胆気味に続けた。


「そうか。初めの二つは直ぐに見付かったからな。そのまま直ぐに全部見付かると思ったが……、そうは簡単にいかないか」


 一人でいたときは抑えきれていなかった怒りや焦りの全てを包み隠し、押し隠して、青年は静かに事実を受け止めた。

 そして、気落ちしてしまっている小珠に対して幾分柔らかい声を掛ける。


「別にお前を責めているわけじゃない。お前の力にも限界と言うものがあるからな。奴らが力の届かない場所にいるか、まだ表立って動いていないか、ただそれだけのことだ」


 小珠がおずおずと下から見上げるように青年の顔を見れば、青年は仕方がないとばかりに、小珠の頭に手を載せて軽く叩いた。


「問題は、連中がお前の力の及ばない場所にいるせいで見付けられないだけだとすると、このままここにいるだけでは見付けられないと言うことだ」


 手をどけて腕を組み、自分の描いた絵を見ながら青年は口の中で呟く。


「拠点を変えるか……」


 今のままでは進まないのなら、捜索の中心点を変えればいい。

 単純に考えるのならそういうことになるのだが、問題はそれほど簡単に解決できるものではなかった。


 小珠がハッと表情を強張らせて青年の着物の端を掴み、左右に首を振る。

 それは青年の答えに対する反対だった。


「ああ。分かっている。分かっているさ。この山の中のこの場所にいる限り、俺たちは自由に行動できるが、表に出てしまえば制約が多いんだろ? ちゃんと覚えているさ」


 言うと、小珠はホッとしたように息を吐いた。

 これが、青年を苛立たせている原因の一つだった。

 別に小珠のことが気に入らないわけではない。自分の行動に制限が課せられていることが気に入らなかった。


 青年はある山の中にある、今となっては住む者もいなくなった屋敷に初めは小珠と二人で暮らしていた。訪ねて来る者は皆無ではないにしろ、殆どいない。別にそれを不便だと思ったことはないが、今はそこに新たに二人が加わり四人で生活している。


 広い屋敷だった。二人だけでは使い切れない程部屋数はある。故に、自分と小珠以外が住み着いたところでどうと言うこともなかった。いや、むしろ住んでもらわなければ困っていたのは青年の方だった。


 もしもその二人を屋敷において置けなかったら、青年の命が尽きていた。

 と言っても、青年は不治の病に侵されているわけでもなければ、新しく住み着いた二人が医者だと言うわけでもない。

 だったら身の回りの世話をしてくれているのかと言えばそういうわけでもない。

 では何なのかと言えば、』だった。


 制約を課すことで、青年は力を得て、入居者は存在を許された。

 だとしても、それを可能にしているのはこの屋敷であり、この山だった。そこから出て行くことは即ち制約の放棄。それはこの屋敷に住むもの全てに望まざる現実を突きつける結果をもたらすことになる。

 それを解決する方法がないわけでもないが、青年は自分の力不足を知っていた。故に、理想的である拠点の移動が出来ないことがもどかしかった。


「お前の力が及ばないと言うことは、俺の力が不足していると言うことだ。お前が気落ちする必要はない。責めるなら俺自身だ。

 それよりも、あの二人は大丈夫か? 何かおかしなことをしでかしたりはしていないか?」


 問われて小珠は否定した。

 あの二人と言うのは新しく住み着いている二人のことだ。


「まぁ、あいつらが何かをしようにも勝手にこの場所から出て行くことは出来ないからな。最悪の事態は回避出来るが……あまり静か過ぎるとかえって気味が悪い。

幻雲げんうん』はともかく『土砂はにさ』が大人しくしていることが信じられない。またこの前のように部屋に土山でも作っているんじゃないだろうな?

 別にあいつの部屋をあいつがどうしようと勝手だが、この前のように縁の下の土を掘り起こし過ぎて屋敷を陥没させられたら堪らん。屋敷が壊れる分に関してはどうとも思わないが、その振動のせいで絵が台無しになってしまったら笑い話にもならないからな。

 小珠、少し行って様子を見て来い。幻雲はいい。土砂が何かしでかしているようなら直ぐに教えに来い」


 命ずれば、小珠は三歳児の顔に真面目極まりない表情を浮かべて、力強く頷いた。

 そして、すぐさま確かめに行こうと床に手を着いたときだった。


惺流塞せいりゅうさいさまぁ~! いらっしゃいますかぁ~? あなたの宮乃みやのが来ましたよぉ~」


 若い女の声がどこからともなく響き渡って来た。

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