『妖幻絵師 惺流塞』

橘紫綺

第1話『盲目の用心棒』

 闇の腕に抱かれて、一体どれだけの月日が流れたものか……。

 早瀬はやせは、闇に包まれた世界を見るとはなしに見ながら、唐突に思い返してみた。


 ある日突然、早瀬は光を失った。いや、正確には色を失った。

 眼を焼くほどの眩しい光を見た後は、たった一つの色を残して全てを失っていた。

 初めは光すら失ったのかと思ったが、明暗だけは何となく分かった。だが、視界を埋めるのはただの黒。夜の世界だった。


 果てしなく広がる夜の世界。自分の存在すら不確かになる圧倒的な黒い世界。

 自分の姿すら見えない夜の世界は、自身の存在すら危うい存在へと作り変えるのに十分過ぎる効果を有していた。

 自分の姿が見えなくて、意思だけの存在のような錯覚に陥って、それすらも薄れて行く感覚に、早瀬は自分など存在していないのではないかと思った。それほどまでに黒い夜の世界は圧倒的な存在感を与えて来ていた。


 そう――初めは早瀬も、思っていた。

 自分は今、とてつもなく恐ろしい状況にいるのではないか?

 実はもう、自分は死んでしまっているのではないか?


 だが、そう思ったのも一瞬のことだった。多分、一瞬のことだったのだろうと思う。

 今となっては早瀬自身もよく思い出せないことだった。

 自分でも意外なほど屋敷を追い出されてしまうと落ち着いてしまっていた。


 元々買われて来た存在だった。そのときに新しい名前を与えられたが、今となってはその名を呼んでくれる者もいない。

 眼の見えなくなった使用人など何の役にも立たない。置いて置く方がどうかしているのだ。だからこそ、追い出されたとしても当然のこと。むしろ今まで置いてくれていたことに感謝している。いや、買ってくれたことに対して感謝している。

 お陰で早瀬は農民の出でありながら、剣術も仕込まれ、読み書きも教わった。それは素晴らしいことなのだと言うことは重々承知していた。

 だからこそ、屋敷を追い出されたとしても、早瀬には恨む気持ちなど微塵もなかった。

 当面の生活費としてそれまでの賃金を与えられたのだから、他の者より余程恵まれていると思う。


 ただ、一つだけ心残りなことはあった。自分が仕えていた主の存在だ。

 元を辿れば、早瀬が色を失った原因は若い主にあった。だとしても、早瀬にはそのことを責めるつもりは毛頭ない。むしろ、自分が失明してしまったことを知ったときの主の動揺の大きさを見たなら、たかが一使用人にそこまで心を砕いてくれるのかと感謝の気持ちで一杯になった。


 だからこそ、自分が別の使用人の手で屋敷から出され、遠く離れた場所へ連れて行かれるというその日の、実の父に逆らい続ける様子を忘れることは出来なかった。

 頑固な面もあったが、とても優しい心を持った主だった。

 早瀬が屋敷を出て行かなければならなくなった原因は自分にあるのだから、追い出すのだけは止めて欲しいと懇願してくれたことが嬉しくてたまらない。


 そして思う。今も主は自分自身を責め続けているのではないかと。

 たかが使用人の自分の境遇に負い目を感じ続けているのではないかと。

 それだけがずっと心に引っ掛かっていた。


 どうか、くれぐれもお気になさらぬように。

 そう伝えて欲しいと、自分をどことも知れぬ場所へ連れて来た相手に頼んだ。

 その伝言はきちんと届いているのだろうか?


 今のように、不意に自分の主のことを思い出すとき、早瀬は取り返しの付かないことをしでかしてしまったような罪悪感に駆られる。

 確かに、眼の見えない状態で知らぬ土地に連れて来られ、職を紹介されるでもなくいきなり放り出された初めの何日間は途方にくれた。

 どうしたものかと思い、どこから手をつけて何をすればいいのか考えた。

 とにもかくにもまず働き場所を探す必要があった。


 当然のことながら見付からなかった。

 それでも当面は持ち合わせを崩して宿を取っていた。

 そこの亭主が良くしてくれて、眼が見えないと知ると何かと世話をしてくれた。

 人の温かさが身に染みた。

 その頃は常に夜の中で過ごす早瀬は時間の感覚がなくなっていた。

 いつが朝でいつ夜がやって来たのか、初めは分からなかった。

 徐々に何となく分かる頃には、自分が屋敷を出されてからどれくらい経っていたのか知る術はなかった。

 宿屋の亭主に聞けば分かるのかもしれないが、そこに至るまでにも時は流れていたような気がするため当てにならない。


 ただ、自分自身を見詰めていて気が付いたことは、思ったほど動揺も困惑もしていないことだった。

 元々物事に動じない性格をしているとは言われてはいた。そんなことはないと自分では思っていた。だが、結構そうなのかもしれないと思うようになっていた。

 いつまでも宿に居続けることは出来ない。持ち合わせがあり続けるわけでもない。働かなければ暮らしてなどいけないのだ。


 だから早瀬は宿屋の亭主に仕事を紹介して欲しいと頼んだ。

 亭主は遠回しに「ない」と言うことを言っていた。

 あまり期待もしていなかったため、それほど落胆もせず、とりあえず外に出て探してみることにした。ただ歩くのは心もとなかったが、杖を突き、自分の前に地面があることを確かめながら歩くことは慣れてしまえばどういうこともなかった。

 ただ、歩くだけならいいが、帰ることが出来なくなることが問題と言えば問題だったが、それもそのうち慣れるだろうと、あまり気にしないことにしていた。


 実際、今となってしまえば道に迷うこともなく帰って来ることが出来るようになっていた。

 だから今は、それすら満足に出来なかったことを懐かしんでいるだけだ。


 そして、事件は起きた。

めしいの人間が大金を持っていることを知った、宿屋の亭主による裏切り行為だった。

 ごろつきが、早瀬の金を奪うために、白昼堂々と早瀬を取り囲んだ。

 呼び止められ囲まれて、逃げ場を失った早瀬は、自分でも意外なほど落ち着いて考えた。

 このまま金を渡してしまおうか? それとも拒絶しようか。


 逡巡して、早瀬は拒絶した。普通だったら渡して命乞いの一つや二つするものなのだろう。

 そのとき周りで見ていた人達の声を聞いていれば馬鹿でも分かることだ。

 無論、早瀬もそれくらいのことは分かっていたが、何故だか渡さなくても大丈夫なような気がしたのだ。


 実際、大丈夫だった。

 少し痛い目を見せてやると飛び掛って来た男の攻撃を避け、避けるままに杖を一振り。物の見事に叩き伏せてしまった。

 誰もが皆、目の前で起こったことに一瞬理解が追いつかなかった。早瀬自身、自分のしたことが理解出来なかった。

 何故か体が勝手に動いた。我に返ったごろつき達が、頭に血を上らせて飛び掛って来る気配が伝わって来たとしても、早瀬に焦る気持ちなど微塵もなかった。それどころか恐ろしく落ち着いていた。


 夜の世界の中、風がうねる音を聞いた。

 近付く気配を感じた。

 息遣い、足音。殺気。

 誰がどういう順番で、どう攻めて来るか、何故か手に取るように早瀬には分かった。


 ああ。稽古か。


 何百何千、何万と繰り返した稽古。体に染み付いてしまった技術が無意識に早瀬を動かしていた。

 稽古の中には一対多数と言うものもあった。刀を奪われたとき、刀を失ったとき、それでも主を守るための技術を叩き込まれるだけ叩き込まれた。


 それが、光を失ってでも生かせることが出来ると知った瞬間。ごろつき達は「話が違う」と叫んで逃げ帰って行った。その連中が、宿屋の亭主の息の掛かった者たちだという事が分かるのはもう少し先のことだったが、そのときは割れんばかりの喝采を浴びた。


 凄い、強いと褒められて、本当に眼が見えないのかと疑われて、それでもやっぱり凄いと称えられた。

 ある意味、それを切っ掛けに早瀬はいくつかの仕事を回してもらえるようになった。


 盲目の用心棒。


 その頃は『早瀬』と言う名ではなく、そんな通り名で呼ばれていた。

 だとしても、本当に用心棒の仕事をすると言うよりは、用心棒として来て貰いつつ、裏で雑用仕事を手伝ってもらうような簡単なものばかりだった。それでも軽い食事が付いて雨風が凌げるのだから願ってもないことだった。


 それから暫くして、町の人間達にも早瀬のことが浸透し、宿屋の亭主が再びごろつきを差し向けて来たとき、再度早瀬は返り討ちにし、その上で一人を捕まえて口を割らせた。

 早瀬は長い間世話になっていた宿屋に足を向け。亭主に満面の笑みを浮かべて礼を述べると決別を告げて後にした。


 笑みを浮かべて礼を述べたのは嫌味でも何でもなく、宿屋の亭主がごろつきを差し向けてくれたお陰で、町の人たちに早瀬は受け入れてもらえた。

 もしもその事件がなかったら、町の人たちが今のように早瀬を受け入れてくれたかどうか分からない。だからこそ、心からのお礼だった。

 だが、亭主にしてみれば逆効果でしかない。だとしても、それを教えてくれる人は早瀬の傍にいなかった。

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