3話:『なんとかなるっしょ教』の教祖、青葉菜摘。


 翌日。教室。


 昼休みのざわめきが、窓ガラスを震わせる。

 空はやたらと青くて、春の風がカーテンをふわふわ揺らしていた。


 机の上に広げた弁当の湯気が、少しずつ消えていくのをぼんやり眺めながら、私は卵焼きを噛んでいた。

 ……味が、しない。いや、してるけど、してない。



 あの日、校舎裏で菜摘の手を取ったからといって、何かが劇的に変わるわけではなかった。

 教室での私たちは、相変わらず「クラスの中心の菜摘」と「隅っこで弁当食べてる水上さん」のまま。

 菜摘の周りにはいつものように人が集まり、楽しそうな笑い声の輪ができている。私は、その輪の外側。


 それでよかった。

 むしろ、それがよかった。


 クラスの誰も知らない。

 あの太陽みたいな彼女と私が、放課後に埃っぽい部室の前で会う約束をしていること。

 二人だけの「秘密」を共有していること。

 その事実だけが、この息苦しい教室で私を支える、小さな、そして少しだけ黒い優越感だった。



 菜摘は、一度だけ、友達の輪の中からちらりと私の方を見た。

 目が合った、と思った瞬間、彼女はすぐに視線を逸らし、何でもないように隣の子との会話に戻る。

 私も、慌てて卵焼きに箸を伸ばした。

 言葉は交わさない。視線も合わせない。

 でも、あのほんの一瞬に、「放課後、待ってる」という無言のメッセージが込められているような気がして、心臓が少しだけ速く鳴った。



「てかさー、部活届の締め切り、来週じゃん? マジで顧問とか見つかんないんだけど」

 前の席の女子が、スマホをいじりながら、隣の子に話しかけるのが聞こえた。

 その言葉に、箸が止まる。


「わかるー。今どき部活強制とかマジないわー。顧問の名前まで書かなきゃダメって、どんだけ信用ないの、うちら」

「ねー。もういっそ、校長の名前でも書いとく?」

「やめなよ、絶対怒られるやつじゃん!」


 軽口を叩きながら笑い合う声が、やけに耳につく。

 顧問――その単語だけで、昨日の光景がフラッシュバックした。



 放課後。校舎裏。山岳部の曇ったガラス戸の前。

「で、先生、誰かあてある?」と聞いた私に、菜摘は一点の曇りもない笑顔でこう言ったのだ。

「うーん……正直、ない!」と。

 そう言って、彼女は埃っぽい窓枠に平気で腰掛けて、どこで買ったのかわからない、毒々しい青色のソーダ味のアイスを舐めていた。

 しかも、なぜか得意げに。


 あの時の「ま、なんとかなるっしょ!」という、根拠ゼロの笑顔が、あまりに雑に脳内で鳴り響く。

「なんとかなる」って、まるで天気予報みたいに自然に言ってのける。

 曇りのち晴れ、みたいな顔で。


 ……本当に? 本当になんとかなるの?

 その無責任な明るさが、私の胃をきりきりと締め付ける。



 私は思考を断ち切るように、スマホを取り出した。

 検索窓に、打ち込む。


『顧問 先生 見つけ方 高校』


 検索結果。

「熱意を伝えよう!」「活動計画書を提出!」「先生の専門分野と合わせるのが吉!」

 ……どれもこれも、ハードルが高すぎる。

 今の私たちにあるのは、熱意というより「勢い」だ。計画書は白紙。専門分野に至っては、皆無。



 スマホの画面をそっと伏せる。

 菜摘は、きっとこんな検索なんてしていない。

 恥ずかしがる前に足が動き、迷う前に口が開き、怖がる前に、もう笑ってる。

 ……私とは、正反対だ。


 でも、だからこそ、見てみたいのかもしれない。

 あの太陽みたいな子が、これからどんな無茶をして、どんな顔で笑うのか。

 その隣に、私がいる世界を。


 勢いで取ってしまった手は、もう離せない。

 だったら、その手がどこへ向かうのか、もう少しだけ、確かめてみよう。

 それが、私の選んだ、最初のルートなんだから。


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