第2話 終わりの延長②

「あっ、…………のッ!!」


 その後ろ姿がまるで幻のように儚く見えて、わたしは思わず大声を上げてしまった。

 すると、少し驚いたみたいに肩が跳ねて、彼女はゆっくりと顔だけをわたしに向けた。


 こんな状況だけど、わたしは思わず綺麗な顔だ、なんて場違いな感想を抱いててしまう。

 目付きはすごく悪いけど、目鼻立ちや輪郭は整っていて、幅の広い綺麗な二重ふたえの上の薄らと切長な睫毛まつげがその端麗さに磨きをかけていた。言うなら芸能人みたいな計算されて作られた顔の感じ。


 そんな彼女は綺麗な顔に不釣り合いな目付きでわたしを睨み続けるものだから、ふと我に帰る。


「なに、……してるの?」


「見ての通りだけど。分からない?」


 なんてことないように、彼女はそう告げた。

 彼女の右手は後ろ手でフェンスを掴んでいるけど、左手は宙をふらふらと漂っていて、わたしはただその右手だけに注意がいってしまう。


 彼女が何をしようとしているのか。その答えは見ての通り以外の答えは浮かばない。だからわたしの何気ない一言がその後押しになるかもしれないし、逆に止めることも出来るかもしれない。

 でも、急な展開にわたしの脳が正常に働いてくれる気がしない。とにかく今は会話を途切れさせてはいけないと、考えるよりも先に口を動かす。


「わ、分かるけど……。飛び降り……」


 自殺。その単語を口にすることを躊躇ためらってしまう。言葉の重みが今あまりにも現実味を帯びてしまっていて、つい口をつぐんでしまった。


「正解」


 彼女はそう端的に答えると、前を向き直してしまう。それがもう会話をする気がないと口外に示しているみたいで、わたしは思わず少し駆け寄って話し掛ける。


「待って! なんで……、そんなこと」


 あと、二、三歩ぐらいまで距離が縮まる。


「死にたいから。それ以外に理由なんてないでしょ」


 彼女はこちらを振り向かず淡々と答える。

 唯一彼女をまだ現実に留める頼りない右手を注視しながら、わたしの頭の中は困惑を極めてしまっている。


 この右手を掴んでも飛び降りた彼女を支えたり出来るものなのかとか。彼女を留める言葉を必死に探して、でもていのいい言葉なんてわたしの中にはなくて。

 彼女の端的な言葉がわたしを焦らせて、わたしはただ必死だった。


「いいんですか!」


 わたしの叫び声を受けて、彼女の右手に少し力が込められたのが見えた。


「何が?」


「その、後悔とか……。な、なにか最後に、やっておきたかったこととかないの? あるでしょ!」


 その込められた右手にわずかな希望を抱いて、わたしは必死に彼女の背中に問い掛ける。


「……ない訳ないでしょ」


「じゃあ、」


 少しずつ、その近くて遠い距離を詰めながら、わたしは彼女の右手に手を伸ばそうとして。


「何で貴方は私を止めようとするのよ。関係ないでしょ?」


「……あるよ」


 あとほんの少し。でも、この手を掴んでどうする? このフェンスがなかったら、彼女の身体ごと捕まえてなんとか出来たかもしれないのに。


「何?」


 声がはっきりとわたしの頭にかかって、前を向く。彼女のきりっとした目がわたしの瞳を真っ直ぐに捉えていて、思わず伸ばしていた手を引っ込める。


「……目の前で死なれると、わたしの気分が悪い」


 変に嘘をつくのも逆効果だと思って、わたしは素直な気持ちを吐露とろする。


「……何? その自分勝手な理由。人の気も知らないで」


「そっちこそ……、同じじゃん」


「……分かった。それじゃあ、今すぐにどこかに行ってよ。それまでは飛ばないであげる」


「それだと、わたしが後押ししたみたいじゃん」


「じゃあ、どうしろと……」


 彼女は不満を一切隠そうともしない溜め息を吐いて、わたしをまた睨み付ける。でも、先程とは違って半身をこちらに向けてくれていることを少しの前進と捉えて。


「……あなたがそれを辞めたら解決するけど」


「それは無理」


 きっぱりと告げる彼女に、わたしの心はまた動揺を隠しきれなくなる。


「さ……さっき、やりたいことがあるって。わたしが出来ることは何でもするから。だから辞めてよ、そんなこと……」


 唯一の希望にすがるように、わたしはそんな提案を彼女に示した。わたしを見つめる彼女の瞳はどこまでも無機質で、今の彼女の感情の色もうかがえない。


「……本気で言ってるの?」


「うん。わたしに出来ることなら何でもするから。だから、あなたがしたいこと、それが終わるまではそんなことしないでよ」


 わたしは彼女の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。それが決して嘘ではないと示すように力強く。


「それが終わったら?」


「……死んでいいよ。わたしの目の前でも」


 わたしは目を離さずに今度は嘘を言う。彼女の今を繋ぎ止めれるならそれでも良い。この言葉にも嘘はないと、そう決意を込めて彼女を見つめ続ける。


 今までずっと、どこか敵意でも込めるようにわたしを睨み付けていた彼女の瞳は、なにか逡巡しゅんじゅんするかのように揺れる。わたしを見定めるように視線をわせている間も、わたしは真っ直ぐに彼女を見つめて言葉を待つ。


 そして、ゆっくりと彼女の薄い唇が開いた。その時、少し口の端が上がったかのように見えて。



「……私、一度でいいから、セックスしてみたかったのだけど?」


「…………え?」


 一瞬、彼女が何を言ったのか分からなかった。いや、確かに聞こえたんだけど、脳が理解を拒絶するみたいに頭の中に残らなかった。


「セックス。どいつもこいつも馬鹿みたいに盛ってるでしょ。興味あったの」


 彼女は身体を完全にわたしに向けて、両手はしっかりとフェンスを掴んでいた。

 取り敢えず、大きく前進出来たことに安心しつつも、わたしは率直な疑問を口にする。


「いや、わたし……、女だし……。わたしが出来るのって……」


「別に、同性同士でも出来るでしょ? 知らないけど」


「でも! わたし、……そういうのじゃないし」


「私もよ。だからって、適当な奴とするのも気に食わない。それに、なんでも、でしょ?」


 彼女は口の端を吊り上げながらも無機質な目をわたしに向ける。その不釣り合いな顔の表面に、わたしはなにかゾッとしてしまう。

 彼女は片手を離してごそごそと制服のポケットを漁ってスマホを取り出した。それをおもむろにわたしへと向ける。


「……なに?」


「証拠。私の為に何でもしてくれるっていう証拠と、さっき言った私がしたいこと、それを口に出して言うのよ。貴方の意志で」


 フェンスの網目からスマホのレンズがわたしを覗く。


「え……?」


 彼女の要求にわたしは思わず疑問の声を出してしまう。

 なんでこんなことになっているんだろう。スマホの向こうでさらにじっと、二つの無機質な目がわたしを見定めるように捉え続けている。


「へー。その場しのぎの冗談だったの?」


「……そんなことないよ」


「じゃあ、ほら。私は加美雛かみひないくね」


 そう言って直ぐ、彼女……加美雛さんはとても恥ずかしいことを事もなげに呟いた。きっとこれは、わたしが今から"証拠"として口にしなければいけない言葉。


 加美雛さんはわたしを急かすようにスマホを左右に振る。今、加美雛さんは右手でスマホを握り、今度は左手だけが彼女をここに繋ぎ止めている。


「い、言うから! だから取り敢えず、こっちまで来てよ」


「嫌よ」


 加美雛さんはフェンスとの僅かな縁に置いていた足先を上げた。加美雛さんの身体が外へと少し傾いて、フェンスが軋む音がわたしの鼓膜にまで響いてくる。


 加美雛さんは少しのきっかけで訪れてしまう死の気配を携えて、わたしを流し目でじっと見ながらスマホを向けている。どこか楽しそうな口元に何も感じてないような死んだ瞳を貼り付けて、きっと彼女は笑っている。


「言うからって! だから、辞めてよ!」


「早く。手、疲れてきたんだけど?」


「わ……わたし、環登吾呼は加美雛さんの……。その、言うこと、なんでも……します」


 なんでわたしはこんなこと言わされているんだろう。この状況も相まって余計に何も分からない。


「それと?」


 加美雛さんはスマホを少し下げる。見えた口元はゆっくりと何かの単語を声を出さずにつむいだ。

 わたしはそれを受けて、思わず耳元が熱くなるのを自覚する。


「……本気で言ってるの?」


 さっき加美雛さんがわたしに向けた言葉を今度はわたしが口にする。

 すると加美雛さんはスマホをわたしに向けるのを辞めて、身体を倒すように後ろに傾け始めて──


「す、するからッ! セックス!」


「誰が誰と?」


 加美雛さんはそう言って、スマホを再びわたしへと向ける。フェンスを掴む左手が加美雛さんの自重を一点に支えていて、フェンスは歪んで不安になるような大きな軋む音を奏でる。

 まるで正気ではない、とわたしは思った。楽しそうにスマホを向けながら微笑む加美雛さんは、正直気が狂っているとしか思えない。


「わたし……は、加美雛郁さんと、セッ……、性行為を、します」


 言い終わって、顔が炎天下の中を歩いたように暑い。満足したのか、加美雛さんは身体を戻して、しっかりと両手でフェンスを掴んでくれた。


 網目の隙間から加美雛さんの細くて真っ白な指が、握手でも求めるようにわたしを誘う。それに少し迷いながら手を伸ばしてみると、わたしの指先を絡め取ってぐっと引っ張られる。

 わたしは思わずフェンスに身体をぶつけてしまって、ハッとなり前を向く。


「か、加美雛さんッ! 危ないって!」


 フェンス越しに間近に迫った美人顔が、男をたぶらかす妖怪みたいに妖艶な笑みで言う。


「よろしくね、私が死ぬまで」

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