十九

 張栄ちょうえいの顔に表れた、己が人生を悔いるような顔を見ていると、呂布の中にある義心が沸々ふつふつと音を立てた。

──なぜ、普通に暮らすことすらも悔やまなきゃならないんだ

 憤恚ふんにの心をその呼気に乗せて吐き出すと、張栄もその呂布が持ち得る感情の波を感じ取った。

「呂布。今は耐えよ。歯をきしませ、血を噛むのだ」

 呂布は

──耐えるだけで、何とかなるのか

と、張栄の言葉を疑ったが、己が八つ当たりするものもない。腹の中が搔き回されるようであったが、それを収めることもできないまま、拳を強く握った。


 呂布にのうちには鬱憤があった。

 父母が奪われ、故郷を追われ、それでも生きている。どこか、それに罪を感じる己がいる。

 そんな己を拾ってくれた丁原にも、かくまうことを決心してくれた張栄にも恩義がある。その手前、己の感じているこの暗い感情を晴らそうとしてみても、それをゆるされないだろうと感じている。

 そして、胸裡きょうりに渦を生んだその感情は、呂布自身が武芸をならうことに使われた。己がつよくなったならば、いつぞや巨悪を倒せるはずである、と思ったのである。

 矛の代わりにすきを振り、人目を盗んで馬と共に場外に出ては、弓に矢をつがえて、己の定めたまとに向かってそれを放てるよう、手を慣れさせた。そうして腕前を調えていくと、いつでもこれを試す場があれば、試してみようと思うようになった。それが悪人に対してなされるものならば、呂布は猶更なおさらに意気揚々と足を延ばしただろう。

 しかし、この時に呂布が思い描いていた悪人とは、いったいどれに属するものだったのだろうか。

 市井の人々の貧窮の根源にある、汚吏おりどもだろうか。それとも、己の安住の地を奪って父母を奪ったえびすどもだろうか。それとも、そういった天命を己に与えた天そのものだろうか。

 呂布の胸裡はそのいずれを明確に映すこともせず、呂布の感情をただ貪るように鎮座していたかもしれない。呂布が持ち得るその暗い感情は、己がつよくなっていくその過程に於いて、強まっていった。

──俺は勁い。俺が奪われたものを、取り返したい

 もしも呂布の中に野望というものが生まれ得るのだとしたら、己が強壮になるに連れて肥大していく其の暗い感情こそが、培養していたのではないだろうか。


 そして、その感情と技量を発露する場というものは、案外にも早く訪れた。

 桓帝が崩じて一年ばかり後のことである。鮮卑せんぴへい州の地へと攻め寄せた。年を経るごとに寇掠こうりゃくというものは甚大なものになっていった。ゆう、并、りょうの三州に於いて、いや、この頃はとえば、それどころか漢の旧都である長安ちょうあんにほど近い三輔の内にも闖入ちんにゅうを許すほどのものであった。それぞれの地が損壊されることは甚だしかった。食物や財物の類は強奪され、人々も多くかどわかされる有様だった。

 呂布のいる九原きゅうげんのあたりも、とうぜん襲われた。しかし、呂布はそれを悲嘆することはなかった。むし

──この怨みを晴らしてやる

とまで思っていた。

 九原の兵が配備される頃、呂布は張栄に黙って県衙けんがにまで行き、自分の名前を叫んだ。

「この呂布にも武働きをさせてくれ」

 この頃まだ声変わりも完全にしていない呂布の声は、少年らしい柔らかみを持った声で衙の中にまで聞こえた。衙の吏人りじんは始め、この呂布の発した声を、ただ街衢がいくわらべうたってでもいるのだろうと軽んじていたが、幾度も同じようにいうものだから、少しばかりは叱りつけるべきだろうと外に出て、その声の主を探した。そうして声のするほうに歩いて行ってみると、その声とは裏腹に己らよりも躰躯たいくおおきな男が居たものだから、腰を抜かした。

「貴様が、呂布か」

 吏人も、その有態を表に出してしまっては市井の人にわらわれることになる。格好を崩さずに呂布にそういた。

「はい。俺がそうです」

 呂布は吏人を見下ろすように見据えて、そう言った。

「どこから来た。生まれは」

「生まれは五原ごげん郡九原県です。商賈しょうこ張伯皮ちょうはくひのところから来ました」

 吏人はわずかかにではあるが、細い目を見開いた。

「おまえが、張栄の元に養われているという童子か。確かに、からだは余りにも立派。しかし──」

 吏人は少し息を溜めると

「まだ元服も成していない童を戦には巻き込めぬ、ね」

 と、声に温かみを持たせていった。吏人は、呂布という少年に対してのような容儀で言えば、きっと引き下がるだろうと思ったのであろう。しかし、呂布はこの吏人が思っているよりも余程強情だった。

「嫌です。俺は戦って、首のひとつやふたつってやりたい」

 呂布は半ば昂奮しながら言った。

「ならん、ならん。これは法で決まっているのだ。十七になってから志願すれば良いだろう」

 吏人は手の甲で払いのけるような動作をしたが、呂布は引き下がれない。何しろ、主の張栄に黙って抜け出し、己の恨みを晴らさんとしているのだ。もしも、ここで鮮卑に一矢報いれなければ、いつ晴らせるのかも分からない。己がこれからどう生きようとも、己が為さんと思っている内に為さねばならぬ。呂布は焦っていた。

──本当に、こいつは童なのか

 言葉の端には余りに気迫がある。そのことは吏人も感じていたが、もしもここで勝手に卒伍そつごに編み込もうものならば、どういったとがめがあるのだろうか。それはすなわち軍紀を乱したということであり、笞杖ちじょうで打ち据えられるのは必定だろう。自らの保身のためにも、風紀を守るためにも、吏人はこの少年の言い分を聞き届けるわけにはいかない。

「ならんと言っているだろう。去らんか、この痴れ者」

 そういって、吏人は敢えて呂布の頬を殴った。胴よりも弱かろう部分とはいえ、その母から受け継いだ女人のような顔ですら硬い。吏人の手は痺れた。さすがに呂布は驚いた素振りを見せたが、それでも退く様な姿を見せない。寧ろより一層、強い眼差しをもって吏人の双眸を見つめた。

──なんと、剛情な

 吏人にも、こういう人物は中々居なかろうと感嘆する心はある。だが、この少年の辿ってきた道のりを知らない吏人は、果たしてどういった経験がこの呂布少年を突き動かしているのかを知らない。

 知らない、というのは呂布も同様である。まだ世間体というものも理解しえない呂布は、なぜ吏人がここまでして己を拒むのか、その意味を知る由もない。いや、むしろ意気ある人間が卒伍に入るということを歓迎すべきだと、そういった傲慢さすらある。

 結局、双方退くに退けなくなってしまったそのとき、呂布の後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。

「わたしのところの僕人が迷惑を掛けていますな」

 呂布が振り返ると、張栄が立っていた。

「全くだ。とっとと連れ帰っていってくれ」

 吐き捨てるように言った吏人の肩を、張栄は左腕でなだめる様に抱き、呂布から離れた方へと歩を進めた。呂布には何を言っているのかを聞き取ることはできなかったが、その話が終わると、吏人は困ったような顔をして呂布のほうに向き直った。そして

「呂布。お前はこれから、卒伍の一員として働け」

と、吏人が言をげたのである。

──いったい何をしたのだろう

 呂布がそういった疑問を抱えていたが、その吏人の後ろに立っていた張栄のほうを見ると、張栄が呂布をるその眼に、明らかな不機嫌さを抱えているのが分かった。

──あとで、俺はどうなるのだろうか

 そういう不安を抱えながらも、呂布は吏人に対して

「ありがとうございます。精一杯働きます」

拱手きょうしゅを拝した。


 寇掠は、連日連夜行われていた。ある時は北で、ある時は東で縦横無尽に馬をせながら、狄どもはこの土地を荒らしていく。

 他の卒伍らと共に城の外に配された呂布は、矛をその右腕に携えながら

──ひと泡吹かせてやる

と意気込んでいた。遠方に何がある訳でもないが、北の方に面を向けて、ただ躰に力を込めたまま佇んでいた。

「そこまで力んでいると、奴らが来た時に動けないぞ」

 そう話してきたのは、李粛りしゅくだった。年の頃は二十歳で、もうすぐ十三になろうとしている呂布の七つか八つ上である。軍に入り込んでから、真っ先に話し相手になってくれたこの李粛の人柄を、呂布は好んでいた。頬の辺りに斬り傷の痕を作っているが、それがこの李粛の顔貌に厳めしさを加えない程に、どこか優しい気配というものをこの男は持っている。

「粛にい。俺の身の上は知っているだろう」

 呂布は、李粛のその人格にてられたのか、会ってから日を置くこともなく、親しみを込めてそう呼ぶようになっていた。李粛も、その呂布の態度が嬉しかったのか

弟布ていふ。戦に私怨は必要無い。俺たちはただの駒なのだから」

と、呂布のことを弟と呼んだ。李粛の言葉には、他者への謙遜というよりも、己への卑下が入っている。そう感じた呂布は

「粛兄はあいつらに何も感じないのか。何でもかんでも強奪していく野蛮人どもなんだぞ」

と、語気を強めて李粛に問いかけたのだが、李粛はその柔らかい風貌を乱すことなく

「いくら野蛮でも、何か訳があるものだろう」

と、平然と言ってのけた。

──そんな風に割り切れるのならば苦労はしない

 呂布が過去に負った傷は、李粛には分かって貰えない。それ程までに、歩んできた道が違うのだろうか。李粛は、いち兵卒として武器を把持するには勿体ないと思えるほどに優れた人格がある。そのことは呂布も心の腔に判っていた。そして判っていたからこそ、この人には自分の心を汲み取って欲しいと思っていたし、きっとそうしてくれる筈だと思っている。

「呂布。向こうには何が見える」

 李粛は突然、呂布に問いかけた。見えるままに見ると、今は何も無かった。呂布は李粛が何を言わんとしているのかが解らなかったが、それでも考え込んだ。言葉の意味は言葉に拠らず、人に拠る。呂布は李粛のその人柄を信用していたから、この言葉には何か意味があるだろうと信じて疑わなかった。暫く遠望した後、それでも何かが見えると思われなかった呂布は

「俺には、何も見えない」

と言い切った。呂布は李粛がどんな風に答えるのかと内心陽気になったが、李粛が言ったひと言は

「俺にも、何も見えない」

という、呂布の期待を外すものだった。呂布はどこか不意を突かれたような感じがして、躰から力が抜けるのが判った。

──李粛は思ったよりも馬鹿なのか

 と呂布が思ったのも束の間、李粛が

「そうだ。そうやって力を抜けば良い」

と微笑しながら言ったのを聞いて、李粛を一瞬でもあなどってしまった己を悔やんだ。

 夜になり、見廻りの兵が騒ぎ始めた。呂布がその声に気付いて目を覚ますと、微かに蹄音が聞こえる。

──あいつらが来たのか

 確証も無いままではあったが、きっとそうに違いないと思った呂布は躰を飛び起こし、矛を持って、すぐさま列を為した一団の中に飛び込んだ。時を置くことなく、その隊は進み始めた。月の明かりしかない中、その闇中に響くて蹄音の方にまで、音を頼りに駆け抜けていく。呂布の息は上がっているが、その所以ゆえんはこの馳走に在るのか、それとも戦闘に向かう昂揚に在るのか、様々な音と蒙昧な視界に遮られて判別もつかないまま、二百歩行った辺りでついに疾駆する馬と、その上に乗る人の影とを捉えた。

「行くぞ」

 隊を先導した者の勇ましいごうと共に、駆け抜けてきた兵卒全員が雄叫びを上げた。呂布もその内に入って声を上げると、列を乱すようにその脚を速めた。

 呂布の脚は速かった。敵の馬に追いつかんばかりの勢いで疾走すると、矛の柄を支えとして跳び上がり、近くを通った馬の背に跨るうまのりの躰へと飛びついた。揉み合いになった末に其の騎を叩き落すと、そのまま馬をぎょして身を低くして、前をはしる数騎へと突進した。呂布が馭すると、何故か馬は驥馬きばのように奔る。瞬く間に追いついた呂布は矛を突き出して一人を墜とすと、左から振られた刀を力づくで弾き落とし、胸座むなぐらを掴んで投げ飛ばした。地に墜ちて藻掻もがいている騎に矛を振って頭蓋を叩き割り、前から飛んできた矢を寸ででかわした。髪をかすめた矢を見送ると、呂布は再び猛進した。

──殺す

 そういうことを呂布が明確に決めつけていたのは、これが初めてであった。その勢いは収まることなく、意気に圧されて馬の尻を向けた騎の背を、その柄まで通るほどに強く貫いた。

 深く突き刺さった矛を脚まで使って引き抜くと、きびすを返して後方へと戻っていった。

 隊列同士がぶつかり合った場所へと戻ると、暗がりの中ではあったが、狄と兵が未だ戦っている最中であった。暗いせいかよく判らなかったが、案外、狄の数もおおい。衆居する兵士が揉みあっている中に、呂布は馬と共に突っ込んでいった。

 呂布の武芸にそのまま敵う者は、残った狄の中に居なかった。呂布は力任せに、馬の上の蛮夫どもを叩き墜としていった。呂布の一撃で絶命した者も、墜ちた後に他の兵に止めを刺された者もいる。そうして狄のしかばねを重ねていく内、段々と干戈を交える音は小さくなっていった。

 鋭い音が潰えた後、呂布は馬から降りて其のたづなを引いて卒伍の列に加わった。己を誇りたい気持ちは多分にあったが、それを嚙み殺して戦果の検分に応じた。

 その場に於いて、狄の尸は総数で二十餘有った。

「そして、お前は幾ら殺した」

 兵を率いていた長が呂布に問いかけた。

「五です」

 呂布は己が殺した者のみを覚えていた。即ち、単騎で抜け駆けして斬った三人と、乱戦の中で確実に殺した二人とである。他にも手を合わせた者はいたものの、自分で殺した訳では無いので省いている。

「五──」

 いち兵卒が乱戦の中で挙げられる首級の数だろうか、と長は疑った。躰はおおきいが、見た目の通り武に優れているというのだろうか。にわかに信ずることは出来えない。

「確かに、五だろうな」

 と言いながら、その長は指算した。指を折り、そして伸ばして数えていくと

「そんな訳があるまい」

と、声を突然荒らげた。

「いま、ここにあるのは二十三だ。おまえの言ったのが真ならば、二十六、ここに尸があるはずだろう」

──そんなはずはない。確かに自分は、五人斬った

 そう思ったが、上司に対して口応えが出来るのかといえば、確かに数えている筈なのだからそれを否とすることもできない。二十三まで数えられないほど、この長は阿呆ではあるまい。

 長は鋭い目をしたまま、隣に立っている兵に顎でしゃくる様な動きを見せた。

──この妄誕者ぼうたんしゃを棒で打て

 と命じたのである。丁原の下では余り味わったことのない軍紀というものを初めてその身に受けた呂布は、多少なりともたじろいで、かつ恐怖した。

 動揺する呂布の脇を二人の兵士が抱えたとき、辺りを偵察した兵士が戻ってきて

「長。向こうに、尸が三つ転がっておりました」

と報告したのを聞いて、長は瞠目した。

──この者は、噓は言っていなかったのか

 そのことを知った為に、両脇を抱えていた兵に腕を解くように命じた。

「先ほどは済まなかった。確かに、尸は二十六であった」

 と厳直に言った長は、呂布の肩を叩いて

「苦労させた。帰ったらしかと休むんだぞ」

と、その働きをねぎらった。呂布は

──助かった

という気持ちと同時に

──人間というものが戦うときには、こういった面持ちもしなければいけないのか

と、思うに至ったのである。


「すごいな、呂布は」

 呂布は気心の知れた李粛に、今度のことを話した。そうすると、李粛は素直にそう言って感心した。

「そうなのかな。その割には、自分が過大に物事を言ったと疑われた」

「それはそうだ。長も、おまえの働きというものを信じられないくらいの戦果を挙げたということだよ」

 そういった李粛は、ほじしを嚙み千切った。

 李粛の屈託のない誉め言葉を呂布は嬉しく思ったが、それと同時に

──やっぱり、この人には勝てないのかもな

と思った。そして、もしも上に立たれるのならば、李粛のような人が良いと望んだ。

「粛兄は、人の上に立ちたいと思わないのか」

 ふと、そんな言葉が呂布の口を突いて出た。先に抱いた望みが、息を吐きだすのと時を同じくして声として出たのだろう。李粛に問い掛けているように見えて、我儘わがままを言っているに過ぎなかった。

 だが李粛は、そのことに気付いた素振りを見せつつも、無碍むげにせずに敦実とんじつな態度であった。呂布のほうに少しばかり躰を寄せ、低い声を出した。

「俺のことを買ってくれるのは嬉しいけれど、そんな事ができるほどの器じゃない。人に使われる程度の人間が、人を導くことなんかできないよ」

「それはへりくだりが過ぎる。いつか、粛兄は人を導くような、そんな人になるんじゃないのか」

 呂布の語気は、自然と強まった。それほどまでに、李粛のことを慕う気持ちがある。

「弟布。俺もまだ廿歳はたちだが、お前よりも長く軍にいて解ったことがある」

「解ったことか。何が解ったんだ」

「俺みたいに優しいだけの人間は、人の上に立てない。弟も、なんとなく解っているんじゃないのか」

「そんなこと──」

 そう言いながら、呂布は心のどこかで感じ取っていたのかもしれない。李粛のような純粋な人は、人の上に立とうという野心を持つよりも先に、己から謙辞を出してしまう。そして、人の濁った部分を見るたびに望みを絶たれたような気分になって、己から遠ざかってしまう。そういう人間は、慕われることはあっても、力づくにも嚮導することが出来ない。

──李粛のような人に、導いてもらうことは出来ない

 その不満こそが、己の持つ本心だったのではないか。

「いや、粛兄。今のは、聞かなかったことにしてくれ」

 呂布が李粛に対して言うと、李粛は

「ああ、そうしよう」

と微笑みを浮かべた。その微笑みに力はなかった。


 時はやや遡るが、この年の八月のことである。

 帝の外戚に当たる竇武とうぶが、陳蕃ちんはんらと共に宦官を排しようとして、逆に討たれるという事件があった。そして竇武らを囲んだ軍の中に、呂布もその名を聞いたことがある、張奐ちょうかんという名将の姿もあったという。

 呂布は驚いた。丁原から

──張奐は人格に優れた将軍だという。威徳を巧く使い分けるそうだ

と聞いていたし、軍に紛れ込んでいる間に、僅かながらにその手腕に触れていたからである。

──その将軍が、宦官の側についたのか

 ということは人民を少なからず驚愕させた。何しろ、現在に於いて異民族から漢を守り抜いている名将の一人である。それが、何故あのようなふとった鼠の腹の中に入ってしまったのだろうか。この事実は、辺境の民を失望させた。

 呂布も、その失望した民草の一人である。

 張栄から、官僚たちの汚れぶりはよく聞いている。私腹を肥やし、暴利をむさぼる。その姿に、憤りを感じないわけでは無い。張栄が

「この地には鈔掠しょうりゃくの多い分、まだましかもしれない」

などと言ったことがある。曰く、そういったことが起こることによって、この地に与えられた税賦の類は他の処に比べると幾分か少ないらしい。さらに言えば、半ば見放されているこの地は、中央からの監視の目も緩くなっているともいう。

──そんな馬鹿な

 と呂布は思ったが、近頃にこの地の風土に慣れていない人が居たのを見て、それがまことなのかもしれないと思うようになった。

「暴政は虎よりも猛々しい」

 と言われることがあるが、この頃はその極地だったのかもしれない。

 兎も角、呂布はこの有様を見聞きして、道理というものが通用しなくなってきたことを感じ取った。遠くの地に竇武や陳蕃といった人々の悪名は聞こえたことはないが、それに対した宦官らの悪名は嫌というほどに聞こえてくる。そのことが、既なる答えなのではないのか。

 このことは、呂布に読書をさせることをやめさせた。ただでさえ厳しいこの地において、知識を蓄えるのは富貴の座興の様に捉えられることが多かった。張栄からは

──たしなむべし

ということを屡々しばしば言われていたのだが、たとえ其処で智嚢をおおきくしたとしても、それを受け入れてくれる程に風土がおおきく無いことは、稚児から見ても明らかである。それならばいっそ、腕力を鍛えて、己の実力のみで人を護れるようになったほうが良い。そういった思考になることは、むしろ健全ともいえた。

 そこから一層に、書を読み、そらんじてみようという時間すらも費やして打ち込んだ鍛錬というものは、呂布自身を好く成長させた。その成果というものが日を置かずに発揮されたのは、さきの通りである。ただ、それは同時に、呂布を学から遠ざけることになる一手になった。そして頭の片隅にある僅かばかりの知識は、これからの呂布を其の大器に見合わない程度にしか支え得なかった。




 年が明けた。帝は年が明けるとすぐに、大赦を行った。

 余談だが、この辺りから大赦というものが連年に亘って行われるようになる。この原因は凡そ災害や反乱が増え始めたことに起因するが、しかしこの時期の朝廷が不可解なことは、その理由を人に求めなかったことにある。

 大赦というものは天子の徳を人民に示すという実際的な役割と、その徳業によって天や怒りを鎮めるという儀式的な側面とがあったのではないか。実際のところ、どこに比重を置いていたのかはわからないが、この年から頻発する災害と変異、そして反乱や寇掠の多さをるに

──己に徳が無い

ということを時の帝(霊帝)は知っている。帝は焦っていたのではないだろうか。


 その焦りが人民に届くことは無い。呂布を養っている張栄は、ただ不可解とだけ思っていた。

 人を支えてきた官僚をゆるさず、権威を地におとしめたものを罰せず、ただ己の威光を誇示するかのように大赦の令を出して公正な審判も無いままに罪人を放出する。今、政を冷ややかな目線で見ている民衆が、そのことに納得する筈は無い。

──このままでは、漢そのものが崩れる

という予感を、どれだけの人が持っていたのだろうか。少なくとも、銭の回りに敏い張栄という男は、その倫理を国にまで当て嵌めて、濛漫ぼうまんとではあるが感じていた。今の、信を失った漢という国に、これを立て直すだけの力があるのだとしたら、必ず闕城の内が空になるような事態になるのではないか。商賈もまた、一定の秩序の中に置かれなければ成り立たない。国が崩れた時に銭のことを言っていられるほど、張栄の持つ権威は強くはないだろう。

──商売あがったりだ

 そういった落胆の想いを息として床に吹き付けた時、呂布がそのもとに訪れた。

「伯皮さま、ただいま戻りました」

「還ったか。そこに座れ」

 張栄は、己の前に敷かれたむしろの上に呂布を座らせた。

「まずは、無事でよかったと思う」

「はい」

 短い語句に、己の昂った感情が乗っているのが分かった。それは呂布にた面前できたことの喜びもあるが、それ以上に

「ばか者。きさまの勇み足に何度も付き合えると思うな」

と、叱り飛ばしたい気持ちのほうが強い。

「申し訳ありません」

 この言葉遣いは、張栄が教えた。人前に出るのに、恥ずかしくない格好をさせたいからである。

「己ひとりで敵中に臨もうとするなど、それは勇などでは無い。己を頼りとする余り傲然となってしまった者を庇うほど、世の中は甘くないぞ」

「しかと」

 ただ、この言葉遣いを覚えてから、呂布は自分に素直さを見せなくなったように思う。呂布の持った溌溂さが、くぐもってしまった。本心は判っている。それでも、どこかに壁があるように思う。

 張栄はひとつ、嘆息を吐いた。

「で、どれだけの働きをしたのだ」

「と言いますと」

「おまえ程の力があれば、前に出て戦ったのだろう。どうだったのだ」

 漠然とした言葉しか出ない自分を嘲ったが、強い言葉を言ったのち、己と呂布との間柄に葛藤しながらも、いま呂布に掛けられる言葉というのは、しかしこれ程しか無かった。

「敵を十二人、殺しました」

「十二人──」

 やはり、この少年は只者ではないと思った。前に丁原の下に居たとはいえ、実際に正面から狄と当たるというのは初めての筈である。自分の目は間違っていなかったのだろう。しかし、顔を伏せている呂布の腕に幾つかの切り傷を見つけた時に

──行かせるべきでは、なかったのかもしれん

と、己の行動を慚愧ざんきした。

 呂布の姿が見当たらない、ということに気が付いたとき、張栄は咄嗟に、自分のかねぶくろから銀子を取り出した。そして

──あいつは衙にいるはずだ

と思い、そのほうに向かって速足で向かった。

──呂布は今度の狄の襲来で、報仇を果たそうとしている

 と勘がはたらいたのは、彼の生い立ちというものと、鮮卑の一団が来たのだ、という知らせとが巧く合致したからである。呂布が考えなしに衙に志願しに行ったのであれば、張栄も考えなしに呂布をたすけようとした。

 張栄には、呂布の無念をいつかは晴らさせたいという思いがある。だが、それと同時にそれは早熟であってはならない、という思いとがある。早くからこなされてしまえば、それは浅薄な理念になってしまう。寧ろ時を置いて、多くの見物をしたうえで而立じりつしたのちに、それを為すか、或いは他の道を成すか、それを選んでこそ人としての深みが出る。

 だが、吏人と呂布とが言い争いとなっているのを見つけた張栄はその間に割って入り、呂布から離れた処で帑に入った銀子を吏人の手に握らせて

「これで、工面してくれないか」

と言っていた。その行動は己の理念とは違い、躰が勝手にしたことである。

 早い話が、情にほだされていたのである。そのことは、吏人が

「そうか、受け取らせてもらおう」

といったときに気が付いた。

──私は、とんでもないことをしてしまったのではないか

 これが原因で呂布の道が逼塞ひっそくしてしまうかもしれない。そう思うと何処か申し訳のない気持ちになり、呂布の顔を見つめた。呂布はその張栄のかおを見て、少しばかり目を背けた。

──私は、この少年のになり切れまい

 そんな気持ちが、張栄の胸襟きょうきんうちにあった。

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