第36章 迫る二つの本番

 朝いちばんに届いた大学ポータルの通知は、眠気を一瞬で吹き飛ばした。件名は簡潔で、容赦がない。


『期末試験日程確定・再掲/出席不足該当者は担当教員へ』


 ログインしてスケジュールを開く。画面のカレンダーに、赤い帯が二本、ぱつんと横切っていた。

 一つは、パラダイスオーシャンの前日。もう一つは、本番の当日。よりによって――よりによって、そこに重なるのか。


(……両方、やる? いや、無理だろ)


 指先が勝手にカーソルを彷徨う。講義名、試験時間、持ち込み可否。淡々と並ぶ現実の文字列が、胸のどこか柔らかい場所に刺さってたわむ。

 昨日の余韻――“解散阻止”の歓声、光輪の下で笑った四人の横顔、結のまっすぐな目――が、遠ざかる。代わりに、冷たい現実のコマ割りだけが拡大されていく。


 出席不足。追試不可。進級保留の可能性。


 無機質な語句に、脈が早まる。いやな汗が首すじを伝う。喉が乾く。水を飲んでも、喉の奥の引っかかりは取れない。


 ――選ばなきゃいけないのか。


 スマホが震いた。社長からの集合メッセージ。「午前、会議。パラダイスオーシャン最終プランの確認」。

 深呼吸を一度。通知を閉じ、ジャケットを羽織る。鏡の中の自分は、妙に他人行儀だった。


 行くしかない。どちらにも、行くしかない。



 事務所の会議室は、朝の光で白い。ホワイトボードには海を模した青いライン、その上に走る照明の通り道。瑞稀がプロジェクターを切り替え、平面図とセクション図を行ったり来たりさせる。


「インイヤーは本番用を支給。予備は各自二本。塩害対策で端子のグリスも塗っておく。海風、侮らないこと。ミラー回線は二系統、遅延の差は事前測定しておく。コメントピンは二段構えで――」


 指示は合理的で、細部まで水が通っている。

 社長はタイムラインを太字で書き込む。「搬入前チェック」「海面反射テスト」「最終通し」。

 俺の手元の資料に、ペンの跡は増える。だが、頭の片隅に、別の紙——試験日程——が張り付いて離れない。


「颯、ここの搬入、クレーン側とのハンドオフは君だよ。瑞稀ちゃんと現場の責任者の番号、今のうちに交換しといて」


「……あ、ああ」


 声がわずかに遅れた。その間。

 優子が頬杖をほどいて、じろりと覗き込んでくる。


「ねえ、ほんとに聞いてる?」


「聞いてる聞いてる。搬入とハンドオフと――」


「復唱じゃなくて、顔の話。目が“いまここじゃない”って言ってる」


 言葉は棘だが、温度は低くない。

 芽亜が「もしかして、寝てない?」と小声で添える。

 恋は心配そうに「無理は、だめだよ」と、ほんの少しだけ袖を引いた。


「平気だよ」


 笑って見せたつもりなのに、瑞稀が眼鏡の縁を指で押し上げた。


「“平気”って言葉、音が軽い時は大体平気じゃない。……大丈夫、こっちは骨組み作っとく。君は“人”を見ること」


 “人”。

 俺の視線が自然と四人をめぐる。

 彼女たちは、椅子の背に手をかけ、頷き、ペンを走らせ、互いの言葉を拾い合っている。

 あの“解放”の夜以降、確かに変わった。声の芯、視線の色、呼吸の揃い方。全部が“前”に移動している。



 昼休憩。

 給湯室で紙コップのコーヒーを淹れていると、芽亜が隣に並んだ。

 湯気の向こうで、彼女はぽつりと言った。


「雑談配信、テストしてみた。……短いやつ」


「マジで?」


「うん。……コメント、普通に読めた。怖くなかった」


 自分で自分に驚いてるみたいに、少し笑う。


「次さ、ちょっと一緒にやってみる? 十五分だけ。私、歌の準備の前に喉温まるし」


「ああ。……いいな、それ」


 優子が顔を出す。「それ、数字の波、拾えるかも。ショート枠、二本に分けよっか。一本目で拾った人を二本目で定着させる」


「もう、優子はすぐ数字」


「だって必要でしょ。数字を踏み台にして、気持ちを届けるんだから」


 強がりの色が少し減った声。

 恋がMC台本のプリントを抱えて駆け寄ってくる。


「オープニングのフレーズ、ここ変えてもいい? “私たちはここにいる”って入れたい。……瑞稀さん、尺、三秒伸ばしてもいいですか?」


「三秒なら拾える。照明のフェード、早める」


 会話は前へ、前へ。

 結だけが少し離れた場所で、鏡代わりの窓に向かって振りを確認していた。

 目が合うと、彼女は一瞬だけ微笑んで、小さく会釈をした。その笑みに、柔らかい何かが宿っている。

 俺の胸の奥で、何かがこつん、と音を立てた。



 午後、大学へ。

 講義室のドアに貼られた“試験日程確定”の紙が、朝見たものと同じ赤をしている。教壇脇で担当教員が腕を組み、出席簿を指で叩いた。


「風見君。……進級、危ない。今期の試験、全部来なさい。来れないなら――来年度だ」


「でも、どうしても外せない仕事が」


「夢を追うのは否定しない。だけど、現実に印鑑は押してくれない。来れるか、来られないか。君が選ぶことだ」


 硬い声。落ちる音。

 わかってる。そんなことは百も承知だ。

 教員室を出ると、廊下の光が白すぎるくらい眩しかった。


(どっちだ。どっちを、切る)


 ポケットの中で拳を握る。拳で握り潰せないものばかりが、目の前に置かれている。



 夕方、スタジオ。

 四人の声が、四つのラインで空に立つ。

 恋のMCは、息継ぎの場所まで滑らかになっていた。優子のゲーム×歌は、“置きフリード”の小ネタに磨きがかかる。芽亜は座らない歌唱の呼吸が深く、音程の芯が太い。

 結のセンター・カムは、立ち位置の半歩が完璧だった。視線の動く角度、手の開く高さ、髪が揺れるタイミング。全部が“見える”ために存在している。


「颯さん」


 曲間、結がそっと寄ってきた。

 距離は近く、声は小さい。


「……大丈夫ですか?」


 いつもの敬語。だけど、音の底に温度があった。

 俺は笑顔を作る。


「何が」


「顔が、少し。……いつもより」


「平気だよ」


 また、軽い音になった。

 結は一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。代わりに、ほんの少しだけ目を細めて頷いた。信じる、とも、任せる、とも取れる頷き方。


 恋が「次、行くよ」と声を張る。優子がピースで返す。芽亜がイヤモニを耳に押し込む。

 俺は照明卓のフェーダーを撫でて、視線を天井のバトンに流す。灯りは生き物だ。呼吸を合わせれば、歌は前に出る。

 でも、呼吸を合わせる前に――俺自身の呼吸が乱れている。



 夜。

 机の上に並んだ二枚の紙。

 片方は試験日程。片方はライブの構成と段取り表。

 白い紙に青い線。青い紙に黒い字。重ねても、重ならない。


(どちらかを選ぶことは、もう片方を捨てることだ)


 そう思う一方で、別の声が囁く。


(選ばなければ、両方を失う)


 ペン先が宙をさまよう。

 “こうすれば全部うまくいく”という魔法の文字列は、どこにもない。

 頭の中に、社長の声がまた降ってくる。


『颯、お前もそろそろ決めろよ』


 決める。

 何を?

 “誰のために”を。


 スマホが小さく光った。

 画面には短いメッセージ。差出人は“結”。


『明日、リハ前に、少しだけ時間ください。……お願いします』


 深く息を吸う。

 胸のざわめきが、ほんの少し静かになる。


(まだ答えは出せなくても、明日は来る。明日を整えるのが、今の俺の仕事だ)


 ペンを置く。

 灯りを落とす。

 暗がりの中で、海の上に浮かぶ光輪を想像する。

 その輪の中に、四人の影が立つ。俺は、その外側で風になる。

 試験の紙が、机の上で静かに待っている。

 現実もまた、そこに立っている。


 二つの本番が、同時に迫っている。

 眼を閉じる。

 眠りは浅く、夜は長い。

 それでも、朝は来る。

 その朝に、俺はまだ、迷っていい。いや、迷ったまま走ることも、きっとできる。


 ――光輪の海へ。

 そして、教室の扉へ。

 両方に手をかけたまま、俺は明日の自分にバトンを渡した。

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