第35章 影を映す眼差し
会議室の空気が、ゆっくりと抜けていく。
資料の紙束を抱えた瑞稀が先に退出し、優子と芽亜は互いに何やら言い合いながら廊下に出ていった。恋も「台本直す」と言ってコピー室の方へ消えていく。
残されたのは、俺と小紅だけだった。
机の上にはマーカーが数本転がり、飲みかけの紙コップから薄くなったコーヒーの匂いが漂っている。窓の外では夕陽が沈みきれずに壁を橙に染め、蛍光灯の白と奇妙な混ざり方をしていた。
ガタン、と椅子を戻す音がやけに響く。
静けさに自分の動作だけが大きく膨らんでいくようで、思わず息を浅くした。
「……颯くん」
名を呼ばれて顔を上げる。
小紅が、資料の束を整える手を止めてこちらを見ていた。
いつものように感情を表に出すわけではない。ただ、瞳の奥にじんわりと灯るものがあった。
その視線に、どこか逃げ場を塞がれたような気がして、喉の奥で言葉が絡まる。
「今日、顔……ちょっと違ったよ」
小さな声。
けれど、確信に近い響きだった。
「……違った?」
「うん。みんなの前では笑ってたけど、ね。目の奥が、昨日までと違う気がした」
柔らかい声色のまま、小紅は淡々と告げる。
責めるでもなく、慰めるでもない。事実をただ置くような言い方だった。
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
俺は慌てて笑みを作る。
「いや、疲れてただけだよ。昨日ちょっと寝不足で」
「寝不足なら、もっと目が濁るはずだよ」
「……どういう意味だよ、それ」
「今日の颯くんは、濁るんじゃなくて……揺れてた。そんな感じ」
机に置いた手が、わずかに震えているのに気づく。
言葉にされると、隠していたものが音を立てて剥がれ落ちる気がした。
「別に、無理に答えなくてもいいよ」
小紅はそう言って、整えかけた資料を揃え直す。紙が擦れる音が小さく響き、その仕草に時間がゆっくりと流れた。
「ただね、センターやってると、どうしても周りの顔色を見る癖がついちゃうんだ。だから余計に、颯くんの変化に気づいちゃったのかもしれない」
「……そういうの、ありがたいような、やりにくいような」
「ふふ。そうだよね」
わずかに口元を緩めて、小紅はペンを一本指で転がした。
沈黙が落ち、窓の外の光がさらに弱まっていく。蛍光灯の白さだけが部屋に残り、影をくっきりと伸ばしていた。
「でもね、無理して“平気”って言わなくていいんだよ」
その一言が、不意に胸を突いた。
昨日、同じことを結に言われた気がする。
その記憶が重なり、言葉が喉で詰まる。
「俺は……」
続けかけて、声が途切れた。
何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。大学の通知のこと、試験のこと、未来を秤にかけていること。言葉にすれば、すべてが現実になってしまいそうで怖かった。
そんな俺を、小紅はじっと見つめていた。
焦らすでもなく、待つでもなく。ただ“そこにいる”という存在感だけで、俺の迷いを映し出す。
「……ごめん。何でもない」
やっと絞り出した言葉は、それだけだった。
自分でも情けないと思う。だが、小紅は首を横に振った。
「謝ることじゃないよ。言えないことがあるのは、普通だから」
「……小紅は、そういうのあるのか?」
「あるよ。いっぱい。……でも、言葉にならないまま抱えてる方が、私には自然なんだと思う」
少しだけ視線を落とし、笑みを浮かべる。
その笑みは淡く、けれど芯のある強さを秘めていた。
「だからね、颯くんも無理に言葉にしなくていい。私が勝手に察してるだけだから」
軽く肩をすくめ、椅子から立ち上がる。
その仕草は穏やかで、余白を含んでいた。
けれど、その余白にこそ強さがあるように見えた。
「……ありがとな」
自然に口から出た。
小紅は振り返り、目を細めて小さく頷いた。
「明日、また会議あるでしょ。そこで答えを出さなくてもいい。でも、迷ってることを隠さないで。……それだけで十分だから」
そう言い残して、ドアの方へ歩いていった。
背中が遠ざかる。ドアノブが回る音。開いた隙間から、廊下の灯りが差し込んだ。
残された俺は、机に手をついたまま、深く息を吐いた。
胸の奥に渦巻いていた迷いが消えたわけではない。
ただ、それを“見られた”ことで、不思議と少し軽くなった気がした。
窓の外では、夕陽が完全に沈んでいた。
街の灯りが一つずつ点り始め、遠くに小さな光の輪を作っていた。
それをぼんやりと眺めながら、俺は呟いた。
「……明日も、走るしかないか」
机の上には、まだ片付けきれていない資料が散らばっている。
それを一枚手に取り、整えながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。
廊下の灯りが閉じ、会議室に再び静けさが戻った。
扉を出ていったはずの小紅の足音が、ふいに止まる。
数秒の間を置いて、またドアが軋んだ。
「……やっぱり、今は行けないや」
戻ってきた彼女は、手にしていたペンを指先で弄びながら小さく笑った。
その笑みは、いつもの舞台用の仮面じゃなく、もっと素朴な色をしていた。
「颯くん、やっぱり無理してるよね」
「だから、平気だって」
「その言葉が、一番“平気じゃない”ときに出るって知ってる?」
軽口のようで、芯に刺さる。
俺は言い返そうとして、喉に詰まった。
小紅は机の端に腰を下ろし、足をぶらりと揺らす。
その仕草はセンターの紅結ではなく、年相応の一人の少女に見えた。
「ねえ、私たち、ちゃんと見てるから」
「……何を」
「颯くんのこと。迷ってる顔も、不安そうな顔も。そういうの隠すの、もう無理だよ」
机に視線を落としたまま、息を吐く。
“隠していたつもり”が、すべて透けていたと知らされるのは、妙に心地悪くて、妙に安心もした。
「俺、まだ答え出せない」
「出さなくていいよ」
小紅はすぐに返す。
迷いの余地を許すその一言が、不思議と強かった。
「答えなんて、今すぐじゃなくてもいい。ただね――」
言葉を区切り、彼女は少し視線を上げた。
真っ直ぐで、柔らかい瞳。
「その迷いを抱えたままでも、私たちは一緒に走れる。だから、一人で背負わないで」
胸の奥がじん、と熱くなる。
慰めでも励ましでもない。ただ“並んで走ろう”と示されただけ。
それだけで、肩に食い込んでいた重さが少し軽くなった気がした。
「……小紅ってさ、時々ずるい」
「え、なにそれ」
「人の内心を見抜いて、さらっと言葉にして……逃げ道を作る」
「ふふ。颯くんにだけ特別サービス」
冗談めかした言葉に、思わず吹き出した。
声が零れると同時に、胸の中で固まっていた何かが解けていくのを感じた。
「ありがとな」
「いいって。私も安心したかったから」
小紅は立ち上がり、ペンを机に置く。
そして扉に向かいながら、もう一度だけ振り返った。
「明日、光輪の海で立つとき。颯くんが笑ってれば、それでいい。――それだけで十分」
ドアが閉じる音は、先ほどよりもずっと軽かった。
会議室に一人残った俺は、机に手を置いたまま、ゆっくりと息を整える。
迷いは消えない。
でも、その迷いを「一緒に背負う」と言ってくれる人がいる。
それだけで、明日へ踏み出す力になるのだと、初めて思えた。
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