第33章 特別な夜に

 ファミレスの窓越しに、街灯の明かりが柔らかく差し込んでいた。昼間の喧騒が嘘のように、夜の店内は落ち着いている。遠くで流れるBGMと、食器の触れ合う音だけが静かに響いていた。


 小紅――いや、まだその名前を声に出すのは早い。彼女はメニュー表をじっと見つめ、やがてぱたんと閉じた。


「今日は……ハンバーグ定食にします」


「お、いつもと違うな」


 彼女は頬を少し染めながら、真っ直ぐに言った。


「今日は特別な日なので。明日からはまた頑張りますから」


「……流石だな」


 その返答に、思わず笑みが漏れる。彼女は小さく肩を竦めて、メニューを店員へ差し出した。


料理が届くまでの間、会話は途切れることなく続いた。

彼女は箸袋を指で弄びながら、ライブ準備での細かいやり取りを一つひとつ思い出すように語っていく。


「リハーサルの時ね、芽亜がマイクスタンドに足をぶつけちゃって。すごい音したんだけど、本人は全然気にしてなくて……でも、後ろにいた恋がとっさにフォローして、会場が逆に笑いに包まれたんです」


「……そんなことが」


「はい。ああいう瞬間に、グループの空気って作られるんだなって思いました」


彼女の声は落ち着いていた。けれどその一言一言には、舞台を真正面から見つめてきた者にしか持てない熱が宿っていた。

ファンの声についても、彼女は淡々としながらも確かに感じていたものを口にする。


「配信のコメントだって、ただの数字じゃなくて……“どの言葉に反応が集まったか”を見れば、私たちの強みがどこにあるのか少し分かるんです。嬉しい言葉だけじゃなくて、厳しい意見も……それもきちんと拾いたいって」


 その真剣さに、俺は言葉を失った。


センターを任されているだけのことはある。

メンバーをどう見ているか、舞台の空気をどう掴もうとしているか――俺が知らなかったことが、こんなにも彼女の中に積み重なっていた。


(……俺は、彼女のことを何も分かっていなかったんだな)


 胸の奥に、鈍い痛みのような感情が走る。

 ステージ上で眩しく輝く彼女ばかりを見て、裏でどれだけの準備をし、どれだけの思いを抱いていたのかを想像すらしてこなかった。


「……あ、すみません。ちょっと語りすぎちゃいましたよね」


「いや。……正直、驚いてる」


 言葉を返すと、彼女は照れ隠しのように肩をすくめて笑った。その笑顔はステージ上の輝きとはまた違う、柔らかい素顔のそれだった。


やがて、ハンバーグ定食が運ばれてきた。

彼女はフォークを器用に使い、真剣な表情でナイフを入れる。その小さな動作すら、不思議なほど幸せに満ちて見えた。

頬張るたびにわずかに緩む口元。そこに浮かんだ表情を見ていると、俺まで胸の奥がじんわり温まっていくのを感じた。

 


 やがて、夜は更けていった。


 会計を済ませようとレジに向かうと、俺の手から伝票をひょいと奪う影があった。


「あっ、おい――」


 思わず声を上げたが遅い。彼女はもう迷いなく財布を取り出し、慣れた仕草でレジ台に差し出していた。

 小銭を揃える手の動きは無駄がなく、まるで最初から自分が払うと決めていたかのようだった。


「ありがとうございました。またのご来店を――」


 定員の言葉が遠くに霞んでいく。その間に彼女は軽い足取りで出口へ向かい、扉を押し開けた。慌てて後を追う。


「ちょっと待て。なんでだよ。俺が払うって言っただろ。いくらだったんだ」


 夜風に髪を揺らしながら、彼女は振り返る。その瞳はどこか勝ち誇ったようでもあり、でも柔らかさを含んでいた。


「いいですよ」


「いや、そういうわけにいかないだろ」


「だから、いいんですって。今日は“特別”だって言ったじゃないですか」


 強くもなく、しかし引く気のない声音。彼女の意志がそこにはっきりとあった。


「……そうだけどさ」


「だから、私に奢らせてください。そうしたかったんです」


 街灯の下でそう言い切る彼女の表情は真剣そのものだった。

 ただの気まぐれや勢いではない。ステージを終えた充足感と、今日という一日の区切りを大切にしたいという思いが、彼女をそうさせているのだとわかる。


 俺は思わず言葉を失い、息を吐いた。


「……いいのかよ」


「はい。だって、颯さんのおかげで私は立っていられたから。だから今日は、私から」


 その一言に胸を突かれた。

 しぶしぶ頷きながらも、妙に心が温かくなる。


「わかった。その代わり、次はないからな」


「はい。そのときはちゃんと奢ってもらいます」


「……いや、それもどうなんだ?」


 ふふっと笑う彼女。その笑みはからかうようでもあり、どこか甘やかでもあった。夜道の街灯が二人の影を長く伸ばし、その笑顔をいっそう柔らかく照らしていた。


 しばらく無言の時間が続いた。けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。話したいような気もするし、この空気に身を任せていたい気もする。なんとも不思議な感覚だった。


 気づくと、俺たちはあの公園に足を踏み入れていた。最初に彼女を見た場所。彼女がよく座っているというベンチに、自然と腰を下ろす。


 夜の空気が冷たく、葉擦れの音が遠くで響く。しばしの沈黙のあと、彼女が口を開いた。


「私が、なんでアイドルになったか……わかりますか?」


「……そう言われると、見当もつかないな」


 彼女は視線を前に向け、ゆっくり言葉を重ねていく。


「私は、優子みたいに二次元が好きってわけでもないし、芽亜や恋みたいに特別な才能があったわけでもない。そういう人たちを見て、『すごいな』って思うことの方が多いんです」


「……ああ。まあ、彼女たちはそれを取り柄にしてるからな」


「でも、それでも――やりたかったんです。どうしても」


 息を整え、彼女は続ける。


「大袈裟かもしれないけど、私は“救われた”んです。アイドルに」


 その声に、胸が静かに震えた。


「学校でも、なかなか馴染めなくて。感情を表現できなくて。小さい頃は体調も崩しやすくて……遊びも満足にできなかった。そんなときに、テレビに映るアイドルの姿を見たんです。キラキラしてて、みんなの憧れで、笑顔を届ける人たちだった」


 彼女の瞳が、街灯に照らされてわずかに潤む。


「殻に閉じこもって悩んでた自分が、馬鹿らしく思えるくらいに輝いて見えた。そのとき、私も“同じように人を救いたい”って思ったんです。元気を分け与えられる存在になりたいって」


「……それでアイドルを?」


「はい。そこからは必死でした。勉強して、運動して、今まで触れてこなかった音楽にも手を伸ばして……。そうしているうちに、今の社長に出会いました。『貴方には素質がある瞳をしている。私は貴方に賭けたい』って言ってくれたんです」


「……あの社長が、そんな熱いことを」


 思わず口にしそうになったが、飲み込んだ。彼女は微かに笑って首を振る。


「ここまで言ってくれる人は他にいませんでした。だから私は、社長と一緒に頑張るって決めたんです。それが今の私。私がここにいる理由で、そして――これからも続けたい理由」


 その言葉を聞いて、胸の奥がじんと温かくなる。


「……そうだったのか。話してくれてありがとう」


 彼女は静かに首を振る。


「違います。今日のお礼です」


「お礼?」


「名前、呼んでくれたでしょう。あの時」


 喉が詰まる。思わず目を逸らした。


「ああ……本当にすまなかった。そういうつもりじゃ――」


 言いかけた言葉を、彼女が遮った。


「そんなのわかってます。颯さんがそういうことをしない人だって、知ってます。だから、むしろ嬉しかったんです。あの一声で、力に変えられました。……ありがとう」


 彼女の微笑みは、涙のような輝きを帯びていた。


「私は――結城小紅。これからもよろしくお願いします、颯さん」


 その名が、夜の空気に溶けていく。

 胸の奥が、静かに震えた。


「……ああ。こちらこそ、よろしくな。小紅」


 ベンチに並んで座る二人の影が、街灯に照らされて重なり合う。

 夜は静かに更けていく。けれど、その心は確かに熱を帯びていた。

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