第2話 初めての相棒
自室のドアを閉めた瞬間、アオは外界の喧騒から切り離されたような安堵感にそっと息を吐いた。
整然と本が並んだ棚、勉強道具が最低限だけ置かれた机、そして壁に貼られた一枚の風景画。
余計なものが何もない、静かで完結した自分の城。
しかし、その静寂はすぐに破られた。
ポケットの中でスマートフォンが震え、画面に『ハル』の文字と快活な笑顔のキャラアイコンが浮かび上がる。
アオは観念したようにそれを取り出し、通話ボタンを押した。
「もしもし、アオ? ちゃんと帰った? よーし、じゃあ早速始めよっか! 『ディメンション・ウォーカー』のチュートリアル!」
スピーカーから、ハルの元気な声が少しだけデジタル処理された響きで飛び出してくる。
アオは、机の上にスマホを立てかけると、言われるがままに、ホーム画面に追加された剣と盾のアイコンをタップした。
派手なオープニングムービーが流れ、重厚な音楽が部屋に響く。
アオは少し顔をしかめながら、音量を少し下げた。
「まずはアバター作成からだよ! ここ、めっちゃ凝れるからね! 私なんて三時間も悩んだんだから!」
画面には、性別、髪型、瞳の色、服装と、無数の選択肢が並んだアバターのカスタマイズ画面が表示されていた。
画面の向こうで、ハルが「髪型はツンツン系が人気でね、目の色はオッドアイにもできるし……」と熱心に解説している。
しかし、アオの興味はまったく惹かれなかった。
自分自身を仮想空間で飾り立てるという感覚が、彼にはどうにも理解できなかったのだ。
「これでいいや」
アオは、ずらりと並んだ選択肢をスクロールすることもなく、画面の隅にあった『デフォルト設定で開始』というボタンを迷わず押した。
「ええっ!? ちょっとアオ! もったいないよ! せっかくカッコよくできるのに!」
「いいんだよ、これで。僕だってわかるし。ただのゲームなんだから」
アオのそっけない返事に、ハルは電話の向こうで「もー、こだわりがないんだから!」と文句を言っている。
画面の中では、ごく普通の髪型に平凡な顔立ちの没個性的なアバターが誕生していた。
アオは、その他大勢に紛れられるその姿にむしろ少しだけ満足していた。
アバター作成を終え、いくつかの説明を読み飛ばすと、ゲームは次のステップへと進んだ。
『ようこそ、ウォーカー。君だけの相棒となる、ARペットを生成します』
画面の指示に従い、アオはスマホのカメラを起動した。
レンズが捉える見慣れた自分の部屋の光景がディスプレイに映し出される。
「わ、始まった! アオ、そこ一番楽しいとこだからね!」
ハルの興奮した声が聞こえる。
『安定した平らな場所を認識させてください』
アオは言われるまま、読みかけの本が数冊積まれた机の上に、スマホのカメラを向けた。
すると、画面の中央、机の上の空間に、ふわりと小さな光の点が現れた。
その点は、まるで夜空から舞い降りた星屑のように、静かにまたたき始める。
一つ、また一つと、光の粒子がどこからともなく集まってきて、点滅する光の周りに渦を巻き始めた。
それはまるで、小さな銀河が生まれようとしているかのようだった。
アオは、思わず息を呑む。
さっきまでの、選択肢をただ選ぶだけの作業とは全く違う、神秘的な光景だった。
「好きな形と色を選べるよ! ドラゴンとか、グリフォンとか、カッコいいのも作れるんだって! 色も、虹色とかにもできるし!」
ハルの声が、遠くに聞こえる。
彼女の言う「カッコいい」選択肢は、今の光景の前ではひどく陳腐なものに思えた。
アオは、画面に表示された複雑なフォルムのリストには目もくれず、ただ目の前で脈動する光の渦を見つめていた。
生命の息吹。
陳腐な言葉だが、アオの心に浮かんだのは、まさにその感覚だった。
デジタルな光の集合体が、まるで呼吸をしているかのように、ゆっくりと収縮し、膨張を繰り返している。
アオは、何かに導かれるように、画面をそっとタップした。
彼が選んだのは、リストの一番上にあった、最もシンプルな『球体』のフォルム。
そしてカラーパレットの中から、心を落ち着かせる、澄んだ夜空のような青色を選んだ。
その瞬間、渦巻いていた光の粒子が、一斉に中心へと収束した。
ポン、と。
空気が弾けるような、柔らかい効果音と共に、アオの机の上に、小さな光の生き物が姿を現した。
それは、アオが選んだ通りの、シンプルな丸いフォルムをした、青い光の生命体だった。
大きさは、ちょうど手のひらに乗るくらい。
半透明の体の中では、さらに淡い光が、心臓の鼓動のように、とくん、とくん、と穏やかに明滅している。
つぶらな瞳のように見える二つの白い光点が、ぱちぱちと瞬きをした。
それが、アオだけの相棒だった。
光の生き物は、しばらく宙に浮かんだまま、きょろきょろとアオの部屋を見回していたが、やがてレンズの向こうにいるアオの存在に気づいたのか、その顔をじっと見つめてきた。
好奇心に満ちた、純粋な眼差し。
アオは、ビデオ通話のことなどすっかり忘れ、椅子からゆっくりと立ち上がった。
そして、まるで本物の小動物を驚かせないように、そっと手を伸ばした。
もちろん、その指先は光の体に触れることなく、空を切るだけだ。
しかし、アオの指がARの体に重なった、その時。
アオが片手で持っていたスマートフォンが、とくん、とくん、と猫が喉を鳴らすような、微かで心地よい振動を伝えてきた。
画面の中の光の生き物は、アオの指先に自分の体を擦り付けるように、嬉しそうにじゃれついてくる。
触れられない。
けれど、確かにそこにいる。
その不思議で温かい感覚に、アオの口元が、無意識のうちにふわりと綻んだ。
「ピック……」
ほとんど無意識に、言葉がこぼれた。
「君の名前は、今日からピックだ」
ピック。
光のひとかけらのような姿。
彼にぴったりな名前だと思った。
アオがそう名付けると、ピックは「ピュイ!」と電子音の鳴き声を上げ、彼の周りを嬉しそうにくるくると飛び回った。
「もしもーし! アオ? 聞いてるー? どんなペットにしたの?」
スピーカーから聞こえてきたハルの声に、アオははっと我に返った。
「あ、ああ、うん。決めたよ」
「どんなのにしたの? 見せて見せて!」
アオは、自分の机の上で無邪気に遊ぶ小さな青い光を見つめた。
あれほど騒がしいと感じていたデジタルの世界。
その中に、こんなにも静かで、愛おしいと感じられる存在がいたなんて。
ハルが熱心に勧めてきた派手なモンスターや、競争心を煽るゲームシステムではない。
ただ、目の前に現れてくれた、この小さな相棒。
初めて、アオはこのゲームが、少しだけ面白そうだと感じていた。
「よろしくな、ピック」
アオの小さな呟きに、ピックはもう一度、嬉しそうな電子音で応えた。
それは、静かな世界で生きてきた少年が、新たな世界の扉を、ほんの少しだけ自らの意思で開いた瞬間だった。
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