ディメンション・ウォーカー ~どうやら、見てはいけないものを見てしまったらしい〜

オテテヤワラカカニ(KEINO)

第1話 非日常への招待

 SNSを開けば、友人の投稿はARフィルターでデコレーションされ、街を歩けば、店の看板は立体的なホログラムとなって客を誘う。


 世界の色彩が、ほんの少しだけ増えて久しい。


 天野蒼(あまの あお)──アオは、窓際の席からぼんやりと校庭を眺めながら、そんなことを考えていた。

 紙のページを繰る指先の感触と、古びたインクのかすかな匂い。

 それがアオにとっての世界との心地よい距離感だった。

 

 窓の外、ガラス一枚を隔てた世界は、アオの好む静寂とは正反対の賑やかな光に満ちている。

 生徒たちの誰もが、当たり前のようにスマートフォンを片手に、現実と仮想が溶け合った景色の中を生きていた。

 

 中庭では、女子生徒の一人がスマホをかざしながら、楽しそうに笑っている。

 画面の中の彼女の肩には、現実には存在しない、ふわふわと浮遊する猫のような生き物がじゃれついていた。


 その生き物は半透明の光の粒子でできていて、時折きらきらと輝くデータを振りまいている。

 また別の場所では、数人の男子生徒が輪になってスマホを覗き込んでいた。

 彼らの一人が何かを達成したのだろう、祝福を示すカラフルなAR(拡張現実)の紙吹雪が、現実の桜の花びらのように宙を舞って、やがて淡く消えていった。

 

 それが当たり前の光景。

 誰もが自分の世界を、デジタルな光で飾り付けている。

 

 アオは、その光景からそっと視線を外し、手の中の文庫本へと意識を戻した。

 文字の中の静かな世界の方が、彼にはずっと居心地が良かった。

 

(少し、騒がしいな)

 

 それが、アオがこの拡張された現実に抱いている、正直な感想だった。


「アオ!」


 不意に鼓膜を弾くような明るい声が、彼の静寂を破った。

 声の主を確かめるまでもない。

 

 幼馴染の星野陽菜(ほしの はるな)──ハルだ。


 アオが顔を上げると、ハルはすでに彼の机の横に立ち、興奮を隠しきれないといった様子で自分のスマホ画面を突きつけてきていた。

 

「見て見て! 昨日ついにゲットしたんだ! レアモンスターの“ヴォルグラウンド”!」

 

 ハルのスマホ画面には、彼女の自信満々なアバターと、その隣に鎮座する巨大なモンスターが映し出されていた。

 デジタルな蒼い炎をまとった龍型のモンスターで、背中にはホログラムでできた禍々しい翼が生えている。

 現実には存在しないはずのそのモンスターが、AR技術によって、まるで本当に教室にいるかのような圧倒的な存在感を放っていた。


「へぇ、すごいね」

 

 アオは、ページに栞を挟みながら、できるだけ感情を込めずにそう言った。

 彼の興味が画面の中のモンスターよりも、栞の紐の揺れの方に向いていることにハルは気づいているのかいないのか。

 

「すごいでしょ! この子のテイム、めっちゃ大変だったんだから! 昨日の夜、街中走り回って、やっと見つけたんだ!」

 

「そうなんだ。お疲れ様」

 

「もう、アオは反応が薄いんだから!」

 

 ハルは少しだけ頬を膨らませると、ぐいと身を乗り出し、アオの顔を覗き込んだ。

 太陽の匂いがする、快活な笑顔。

 

「だから言ってるじゃん! アオも絶対にハマるって! この『ディメンション・ウォーカー』は、ただのゲームじゃないの。いつもの通学路が、学校が、この街全体がダンジョンになるんだよ!? ワクワクしない?」

 

 現実世界が、ダンジョンになる。

 その謳い文句で、高校生たちの心を鷲掴みにしているスマホARゲーム。

 それが「ディメンション・ウォーカー」だった。


 プレイヤーはスマホを現実にかざし、街の至る所に隠された「次元の欠片(フラグメント)」を探し、時にはARモンスターと戦い、自分だけのARペットを育てながら冒険する。

 

 だが、アオにとっては、ただでさえ騒がしい現実が、さらに騒がしくなるだけの代物としか思えなかった。

 

「僕はいいよ。ゲームはあんまり得意じゃないし、なんだか複雑そうだし」

 

 アオは、やんわりと、しかしきっぱりと断った。

 これで何度目になるだろうか。

 ハルはここ一週間、毎日こうしてアオをゲームの世界に引き込もうと勧誘を続けている。


「もー、複雑じゃないって! 私が全部教えてあげるからさ!」

 

「遠慮しとく、気持ちは嬉しいけど」

 

 アオがそう言って、再び本を開こうとした、その時。

 予鈴が鳴り響き、ハルは「ちぇっ」と舌打ちしながら、慌てて自分の席へと戻っていった。

 嵐のような幼馴染が去った後の、束の間の静寂。

 アオは、そっと息を吐き、物語の世界へと再び意識を沈めていった。


 

 その日の放課後、アオは自分が油断していたことを思い知らされた。

 授業が終わり、教室の喧騒から逃れるようにして、一人さっさと下駄箱へと向かう。

 自分の靴を取り出し、上履きをしまおうと屈んだ、その時だった。

 

「捕まえた!」

 

「うわっ!?」

 

 背後から、楽しそうな声と共に肩を掴まれ、アオは思わず情けない声を上げた。

 振り返ると、そこには案の定、してやったりという顔のハルが立っていた。

 

「ハル……びっくりするだろ」

 

「逃げるアオが悪いの! で、話の続きなんだけど」

 

 まだ続ける気なのか。

 アオの顔に、隠しきれないうんざりとした色が浮かぶ。

 その表情を読み取ったのか、ハルは今度は作戦を変えてきた。

 両手を合わせ、キラキラとした瞳でアオを見上げる。

 

「お願い! 一生のお願い!」

 

「その一生のお願い、先週も聞いた気がするけど」

 

「細かいことは気にしない! あのね、今だけなんだって! 新規プレイヤー向けの初心者ボーナスがもらえるの! これがあると、序盤がすっごく楽に進められるの! このチャンスを逃すなんて、もったいないよ!」

 

 畳み掛けるような早口。

 アオは、黙って自分の靴に履き替えることで、無言の抵抗を示した。

 

「ねえ、聞いてる? しかも、紹介した私にも特典があるんだよねー」

 

「それが目的だろ……」

 

「それもあるけど! でも、一番はアオと一緒に遊びたいからだよ! 絶対に楽しいから! 私が全部、ぜーんぶ教えてあげるから!」

 

 まっすぐな瞳。

 一点の曇りもない、善意と好奇心。

 アオは、昔からこの瞳に弱かった。

 

 アオは、頭の中で天秤をかけた。ここで断固として断り、明日からも続くであろうハルの勧誘を受け流し続ける労力と。

 ここで折れて、少しだけゲームに付き合い、彼女を満足させる労力と。

 

 数秒間の思考の末、天秤は、後者へと大きく傾いた。

 アオは、深く、長いため息をついた。

 それは、降伏を告げる白旗のようだった。

 

「……わかったよ」

 

「え、ほんと!?」

 

 パッと、ハルの顔が輝く。

 

「少しだけだからな。本当に、ちょっとだけ試すだけだから」

 

「うん、うん! それでいいの!」

 

 ハルは、アオの返事が変わらないうちに、とばかりに彼の腕を掴むと、自分のスマホを取り出した。

 

「じゃあ、早速インストールしちゃおう! アオのスマホ貸して!」

 

「え、ここで!?」

 

 アオの抵抗も虚しく、スマホはハルの手に渡り、慣れた手つきでアプリストアが開かれる。

 数回のタップの後、画面には『ディメンション・ウォーカー』のダウンロードを示すプログレスバーが表示された。

 

 バーがゆっくりと右へと伸びていく。

 それは、アオの静かな日常が、少しずつ侵食されていく様を可視化したもののようにも見えた。

 

 やがてダウンロードが完了し、アオのシンプルなホーム画面に、見慣れないアイコンが一つ、ぽつんと追加された。

 剣と盾が交差した、いかにもなデザインのアイコン。

 ハルは満足そうにスマホをアオに返した。

 

「よし! これでアオも今日からウォーカーだね!」

 

 満面の笑みを浮かべるハルと、どこか遠い目をするアオ。


 こうして、天野蒼の騒がしくて、不思議で、そしてほんの少しだけ世界の真実に触れることになる冒険は、本人の意思とは裏腹に強制的に幕を開けたのだった。

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