Round.9
恋する乙女が知らないのは、愛する人の執着の深さである。特に、それが幼い頃からの想いであるならば——
雨の降る午後、カミラはアシュランとの昼食会を楽しんでいた。窓の外では雨粒が優雅に踊り、室内には暖炉の温もりが満ちている。銀の食器が光を弾き、白いテーブルクロスの上には色とりどりの料理が並んでいた。
「このスープ、本当に美味しいですわ」
カミラが微笑むと、アシュランも穏やかに頷いた。
「気に入ってもらえて嬉しいよ。君が元気に食事をしている姿を見るのは、僕にとって何よりの幸せだからね」
相変わらず優しい言葉に、カミラの胸がきゅんとする。彼と話していると、自然と笑顔になってしまう。
そんなカミラを見つめながら、アシュランは内心で微笑んでいた。
(また頬が赤くなっている。本当に可愛いな)
最近、彼女は自分の前でよく頬を染める。それがたまらなく愛おしい。その度に、抱きしめたい衝動を必死に抑えているのだが——。
でも、ふと気づいた。カミラの頬がいつもより赤い。そして、額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「カミラ……少し顔が赤いね」
「え? そ、そうですか?」
カミラは慌てて頬に手を当てた。確かに熱い。でも、それはアシュラン様の前だから——。
「もしかして、熱があるんじゃないかい?」
アシュランが心配そうに身を乗り出す。その瞬間、カミラの身体がふらりと揺れた。
「カミラ!」
アシュランは素早く立ち上がり、彼女を支えた。カミラの額に手を当てると——。
——熱い。
驚くほど熱かった。
「熱がある!?」
「い、いえ……少し暑いだけで……」
「嘘だ。こんなに熱いのに」
アシュランの声が、珍しく焦りを帯びていた。カミラはその声色に驚いて顔を上げる。いつも余裕のある彼が、こんなに慌てているなんて。
「ルシアンを呼ぼう。医師より早い」
アシュランは侍女を呼び、すぐにルシアンへの伝令を出した。その間も、カミラの手をしっかりと握っている。
*
十分後、ルシアンが慌ただしく部屋に入ってきた。
「緊急の呼び出しと聞きましたが……」
そう言いかけて、ルシアンはソファに座るカミラを見て目を見開いた。アシュランが彼女の隣に座り、手を握ったまま離さない。
「やあ、ルシアン。悪いね、急に呼び出して」
アシュランの声は落ち着いているが、その瞳には明らかな心配の色が浮かんでいる。
ルシアンは素早くカミラの脈を取り、額に手を当てた。思いつく限りの検査を施し、彼はアシュランにこう告げる。
「ただの風邪ですね……」
「風邪?」
アシュランはまるで信じられない、と怪訝そうな顔をした。
「はい。熱はありますが、重症ではありません。おそらく、最近の天候の変化で身体が冷えたのでしょう」
ルシアンは薬箱から薬草を取り出し、手早く解熱剤を調合し始めた。
「これを飲んで、ゆっくり休めば明日には回復するでしょう」
「本当に?」
「ええ。ただし、今日一日は安静にしていてください」
ルシアンはカミラに薬を手渡した。
「分かりました……ありがとうございます、ルシアン」
カミラが薬を飲むと、ルシアンは満足そうに頷いた。
「では、お大事に」
ルシアンが部屋を出ようとした時、アシュランが静かに声をかけた。
「ルシアン、少し待ってくれ。看病の注意点を教えてほしい」
「……看病は侍女に任せればよいのでは?」
「僕がする」
アシュランの声には、有無を言わせない響きがあった。ルシアンは一瞬驚いたが、すぐに納得したように頷いた。
「分かりました。では、こまめに水分を取らせること。額を冷やすこと。部屋を暖かく保つこと。そして——」
ルシアンは少し躊躇ってから続けた。
「あまり心配しすぎないこと。ただの風邪ですから」
「……ああ」
アシュランは静かに答えたが、その手はカミラの手を離さなかった。
ルシアンは小さく溜息をついて部屋を出た。廊下に出てから、呟く。
「……全くあの二人は」
*
ルシアンが去った後、アシュランはカミラを横抱きにし自室へ運んだ。
「あ、あの、アシュラン様! 自分で歩けますわ!」
「君は今、病人なんだ。大人しくしていなさい」
その言葉に、カミラは抵抗できなくなった。アシュランの腕の中は温かく、心臓の音が聞こえる。こんなに近くで抱かれるのは初めてで、カミラの顔がますます赤くなった。
自室の寝台に優しく下ろされると、アシュランは手早く毛布をかけてくれた。
「少し待っていて。すぐに戻るから」
そう言って、アシュランは部屋を出て行った。
数分後、彼が戻ってきた時には、両手に様々なものを抱えていた。氷水の入った器、清潔なタオル、薬草茶の入ったポット、追加の毛布——。
「アシュラン様……そんなに……」
「君が快適に休めるように、必要なものを揃えただけだよ」
アシュランは寝台のそばに椅子を引き寄せ、腰を下ろした。そして、タオルを氷水に浸し、丁寧に絞ってからカミラの額に乗せた。
「冷たい……」
「我慢してね。すぐに楽になるから」
その手つきは驚くほど慣れていて、優しかった。カミラは目を丸くする。
「アシュラン様……看病、お上手ですのね」
「以前、母上が病気になった時に看病したことがあってね。その時に色々と学んだんだ」
アシュランは口角をわずかに上げ、薬草茶をカップに注いだ。
「さあ、これを飲んで」
「自分で飲めますのに……」
「いいから」
アシュランはカミラの背中を支え、カップを口元に運んだ。その距離の近さに、カミラの心臓が跳ねる。
「あ、あの……近いですわ……」
「近くないと飲ませられないだろう?」
アシュランは涼しい顔で答えた。だが、その瞳には少しだけ楽しそうな光が宿っている。
「それに……」
カミラの耳元に顔を近づけ、囁く。
「君が病気の時くらい、僕に甘えてもいいんじゃないかな」
その声があまりにも甘く、カミラは思わず息を呑んだ。
「あ、アシュラン様……」
「ん? どうかした?」
「い、いえ……」
カミラは顔を背けた。こんなの、ずるい。いつもは自分が仕掛ける側なのに、今日は完全にアシュランのペースだ。
薬草茶を飲み終えると、アシュランは唇にかすかな笑みを浮かべた。
「よくできました」
「子供扱いはご遠慮願いたいですわ……」
「ふふ、でも今の君は僕に守られるしかない子猫のようだよ」
その言葉に、カミラは頬を膨らませた。でも、確かに今の自分は何もできない。そして、アシュランに看病されるのは……嫌ではない。むしろ、心地よい。
「では、少し休みなさい。僕はここにいるから」
「でも……お仕事は……」
「君が何よりも最優先だよ」
その言葉に、カミラの胸が熱くなった。
「それに……」
アシュランはカミラの髪をそっと撫でた。
「君が病気の時に、他の誰かに任せるなんてできない。僕だけが、君のそばにいたいんだ」
その言葉には、深い愛情と同時に、拭えぬ影が滲んでいた。
「アシュラン様……」
「さあ、目を閉じて。君が眠るまで、手を握っていてあげるから」
アシュランの優しい声に、カミラは素直に目を閉じた。彼の手の温もりが、安心感を与えてくれる。
——こんなに大切にされるなんて。
カミラの意識が、ゆっくりと眠りに落ちていく。
*
カミラが眠りについた後も、アシュランは彼女のそばを離れなかった。
寝顔を見つめながら、彼は静かに呟いた。
「君が苦しんでいる姿を見るのは、本当に辛い」
カミラの手を握る手に、力が込められる。
「昔から……ずっと、そうだった」
アシュランの瞳に、遠い日の記憶が浮かぶ。
*
それは、二人がまだ子供だった頃の話。
カミラは庭園で転んで膝を擦りむいた。大粒の涙を流しながら、痛みに耐えている小さな姿。
その時、駆け寄ってきたのはアシュランだった。
「カミラ、大丈夫?」
幼いアシュランは、必死にハンカチを取り出してカミラの膝を拭った。小さな手が震えている。
「痛い……」
「すぐに治療してもらおう」
アシュランはカミラを抱き上げて、医務室に運んだ。
その時、彼の胸の中で何かが決まった。
——二度と、この子を苦しませない。
——ずっと守り続ける。
——誰にも渡さない。
だが、その純粋な想いは、時に暴走した。
ある日、カミラが他の子供たちと楽しそうに遊んでいるのを見て、幼いアシュランは激しい嫉妬を覚えた。
彼女の笑顔が、自分以外に向けられている。
それが、耐えられなかった。
気づけば、彼はカミラの手を引いて、庭園の奥にある小さな小屋に連れ込んでいた。
「ねえ、カミラ。ここで二人きりで遊ぼう」
「でも、みんなが……」
「みんなより、僕と一緒のほうが楽しいだろ?」
幼い独占欲。それは純粋で、そして残酷だった。
アシュランは小屋の扉を閉めた。カミラが不安そうに彼を見上げる。
「アシュラン様……?」
「大丈夫だよ。僕がいるから」
彼はカミラの手を握り締めた。この手を、誰にも触れさせたくない。この笑顔を、誰にも見せたくない。
だが、やがてカミラは泣き出した。
「外に……出たいですわ……」
「どうして? 僕がいるのに」
「怖いんです……暗くて……」
その言葉が、幼いアシュランの心を凍らせた。
——僕が、怖い?
——守りたかっただけなのに。
——僕の想いが、君を泣かせている。
その時、母である王妃がやってきた。事態を察した彼女は、静かにアシュランを諭した。
「アシュラン」
母の声は優しかったが、同時に厳しかった。
「愛は相手を閉じ込めることではありません」
「でも……僕は、カミラを守りたかっただけで……」
「守ることと、縛ることは違います」
王妃はカミラを優しく抱き上げ、小屋から出した。そして、アシュランに向き直る。
「あなたが本当に大切に思うなら、自由を奪ってはいけません。愛とは、相手の幸せを願うこと。あなた自身の欲望を押し付けることではないのです」
その言葉が、幼いアシュランの心に深く刻まれた。
彼はカミラを見た。涙を流す彼女の姿が、自分の心を引き裂く。
「ごめん、カミラ……」
アシュランはカミラに近づいた。だが、触れることができなかった。
——僕が触れたら、また君を怖がらせる。
——僕が近づいたら、また君を泣かせる。
その日から、アシュランは決めた。
自分の欲望を、決して表に出さないと。
どれほど独占したくても、その想いを封じ込めると。
結婚という誓いを交わすまでは——互いの意思が確認されるまでは——決して、一線を越えないと。
*
「でも今は……」
アシュランは眠るカミラの顔を見つめた。
「君が病気の時くらい、僕の独占欲を許してほしい」
カミラの髪をそっと撫でる。
「今、君の世界には僕しかいない。君は僕だけを頼っている。この瞬間だけは……君は完全に、僕のものだ」
その言葉は、誰にも聞こえない。
ただ、静かな部屋に消えていった。
*
朝、バタバタという大きな足音とともに、ライネルが果物を両腕いっぱいに抱えてやってきた。
「カミラ、大丈夫か!? 倒れたと聞いて駆けつけたのだが ……って、アシュラン、ずっとここにいたのか!?」
「やあ、ライネル。静かに。僕は彼女が目を覚ますまでここにいるんだ」
ライネルは友人の横顔を見つめた。
「すごいな。まさか、ほんとに一晩中つきっきりだったとは。カミラが知ったら泣いて喜ぶに違いない。アシュランは昔からカミラが大好きだな」
「まあ、そうだね」
アシュランは静かに答えた。その横顔はどこか張り詰めていて、ライネルは思わず問いかける。
「アシュラン、そんなに難しい顔をして。……またカミラのことを考えているのだろう?」
そう言うライネルに一瞬驚いた顔を見せ、そのあとおかしそうに笑うアシュラン。
「大丈夫。ただーー、僕の想いは、普通じゃないかもしれない。でも、彼女を愛している。それだけは確かだ」
「それならよいか」
ライネルはうんうん、と頷いた。
「でもさ、そんな顔で思い詰めた顔していたら、カミラがびっくりするだろ?」
「ああ。だから、こうして表に出さないようにしているんだ」
アシュランは微笑んだ。
「ただ……正直に言えば、彼女を誰にも見せたくない。この部屋から出したくない」
「何だって!?」
「冗談だよ」
アシュランは軽く笑った。しかし、その瞳は笑っていなかった。
ライネルは何も言えなくなった。
*
その後も、アシュランは献身的にカミラを看病し続けた。
こまめに額のタオルを取り替え、水分を補給させ、部屋の温度を調整する。その手際の良さは、まるで熟練の看護師のようだった。
「アシュラン様……本当に、お上手ですのね……」
目を覚ましたカミラが呟くと、アシュランは苦笑を零した。
「褒められて嬉しいよ。君のためなら、僕は何だってする」
その言葉に、カミラの胸が熱くなった。
——こんなに愛されているなんて。
でも、彼女はまだ知らない。
アシュランの愛情の深さと、その裏に潜む執着の強さを。
彼がどれほど自分を独占したいと思っているかを。
*
夜になり、ルシアンが再び訪れた。
「経過を見に来ました」
部屋に入ったルシアンは、変わらずカミラのそばに座るアシュランを見て、小さく溜息をついた。
「……まだいらっしゃったのですか」
「当然だろう?」
アシュランは涼しい顔で答える。
ルシアンはカミラの様子を確認した。
「順調に回復していますね。明日には熱も下がるでしょう」
「本当ですか!」
カミラが嬉しそうに声を上げる。
「ええ。アシュラン様の看病が的確だったおかげです」
「それは良かった」
アシュランは満足そうに微笑んだ。
ルシアンは二人を見て、複雑な表情を浮かべた。
「……では、僕はこれで」
部屋を出る前に、ルシアンは小さく呟いた。
「お二人とも、お幸せに」
*
翌朝、カミラは目を覚ました。
熱は完全に下がり、体調もすっかり回復している。
部屋を見回すと、長椅子で眠るアシュランの姿があった。本当に一晩中そばにいてくれたのだ。
「アシュラン様……」
その献身的な姿に、カミラの胸が熱くなる。
そっと寝台から降りて、アシュランに毛布をかけた。
「ありがとうございます……」
小さく囁いた言葉は、彼には聞こえなかった。
*
その日の午後、カミラは自室で指南書を開いていた。
「アシュラン様、本当に優しかったですわ」
昨日の記憶を思い出すと、胸が温かくなる。一晩中そばにいてくれた彼の姿が、脳裏に焼き付いている。
でも、同時に不思議にも思った。
あれほど優しく、あれほど愛してくれているのに、どうして彼は一線を越えようとしないのだろう。
ページをめくると、次の秘訣が現れた。
『第十一の秘訣:男性の独占欲を受け入れる——愛の証としての束縛』
「独占欲……」
カミラの瞳が輝いた。
「アシュラン様も、私を独占したいと思ってくださるのかしら?」
彼女は頬を染めながら、そう呟いた。
もし、アシュランがその言葉を聞いたら、何と答えただろうか。
おそらく、微笑みながらこう言うだろう。
「ああ、もちろん」
そして、心の中でこう付け加えるだろう。
——君が想像する以上に、ね。
*
婚前交渉バトル——恋する令嬢は、まだ知らない。
自分がどれほど深く、愛されているかを。
そして、その愛がどれほど危険なものであるかを。
王子の微笑みの裏に、どれほど深い闇が潜んでいるかを。
だが、それを知る日は、そう遠くない。
結婚という誓いが交わされた時、全てが明らかになるだろう。
窓の外では、雨上がりの空に虹がかかっていた。
美しい光の帯が、空を彩っている。
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