Round.10

 恋する乙女が気付かないのは、愛する人の嫉妬の深さである。特に、それが長年封じ込めてきた想いであるならば——。


 風邪から回復したカミラは、数日後に開かれる王宮の晩餐会に招待されていた。婚約を祝う社交パーティで、多くの貴族たちが集まる華やかな場だ。

 自室で指南書を開きながら、カミラは胸に手を当てた。

(アシュラン様の看病……本当に優しかったですわ)


 一晩中そばにいてくれた彼の姿が、今でも鮮明に蘇る。あの献身的な看護、優しい言葉、そして——少しだけ見せた、独占欲めいた雰囲気。窓から差し込む午後の光が、ページの上で揺れている。静かな部屋の中で、カミラの心臓だけが、記憶の中の彼の体温を思い出すたびに、不規則に脈打った。


「独占欲……」


 指南書に書かれていた言葉を思い出す。男性の独占欲を刺激すれば、より深い愛情を引き出せるという。でも、どうすれば——。

 ページをめくると、次の秘訣が現れた。


『第十一の秘訣:男性の独占欲を受け入れる——愛の証としての束縛』

「でも、アシュラン様はいつも優しくて……独占欲なんて、本当にお持ちなのかしら」

 カミラは首を傾げた。


(独占欲……アシュラン様にも、そんな一面があったら……少しだけ見てみたいですわ)


そんなことを考えていると、侍女が部屋に入ってきた。

「カミラ様、今夜の晩餐会のお支度をいたしましょうか」

「ええ、お願いしますわ」



 その夜、王宮の大広間は華やかな光に包まれていた。

 シャンデリアが煌めき、音楽が流れ、貴族たちが優雅に談笑している。テーブルには豪華な料理が並び、給仕たちが忙しく動き回っていた。空気は甘い香水と、ワインと、何か得体の知れない欲望の匂いで満ちていた。人々の笑い声が、まるで波のように押し寄せては引いていく。

 カミラは薄いピンクのドレスを纏い、アシュランの隣に座っていた。ドレスの生地が肌に触れるたびに、ささやかな緊張が走る。


「カミラ、楽しんでいるかい?」

 アシュランが優しく尋ねる。

「はい。とても素敵な晩餐会ですわ」

「それは良かった。でも、疲れたら言ってね。すぐに休憩できる場所へ案内するから」

「ありがとうございます」

 カミラはアシュランの優しさに胸が温かくなった。この騒がしい空間の中で、彼の声だけが不思議なほど静かに響いた。


 だが、人混みの中にいると、やはり少し息苦しくなってくる。普段は静かな環境で過ごしているカミラにとって、こうした社交の場は少し疲れるのだ。空気が濃密すぎて、呼吸するたびに誰かの視線を飲み込んでしまうような気がした。


「アシュラン様、少しだけテラスの空気を吸ってきてもよろしいですか?」

「ああ、もちろん。でも——」


 アシュランは少し心配そうな表情を見せた。その瞬間、彼の瞳の色が、ほんの少しだけ暗くなったような気がした。

「一人で大丈夫? 僕も一緒に——」

「大丈夫ですわ。すぐに戻りますから」

 カミラは微笑んで答えた。

「……分かった。でも、何かあったらすぐに呼んで」

「はい」



 カミラはテラスに出た。

 夜風が心地よく、月明かりが美しい。人混みから離れて、ようやく息がつける。冷たい空気が肺に入ってくると、身体の奥にあった熱が少しずつ冷めていくのを感じた。

「ふう……」

 手すりに手を置き、夜空を見上げる。星が綺麗に輝いていた。こんなにも静かな夜に、どうして胸の奥だけがざわざわと騒ぐのだろう。


「これはこれは、アシュラン王子の婚約者様では?」


 背後から声がかかった。


 振り返ると見知らぬ若い男が立っていた。派手な装飾の服を着て、どこか軽薄な笑みを浮かべている。


 伯爵家に最近連なったばかりの、名ばかりの新興貴族——金と人脈で爵位を買ったと噂の人物だった。


「あの……どちら様ですか?」

「ああ、失礼。私はここ数年で爵位を得た者でして。名も無き者ですが、こうして王宮の晩餐会に招待されるまでになりました」


 男は大げさに一礼した。その動作は品がなく、どこか下品だった。


「そうですか……」

 カミラは少し距離を取った。この人からは、何か嫌な雰囲気を感じる。汗と香水が混ざったような、不快な匂いが風に乗って流れてきた。


「それにしても、噂通りの美しさだ。いや、噂以上かもしれない」


 男はカミラをじろじろと見た。その視線は、明らかに品がない。まるで、値踏みするような、所有欲に満ちた目つきだった。

「あの、私はそろそろ戻りますので……」

「ちょっと待ってください」


 男が一歩近づいた。カミラの背中に、冷たい汗が流れる。


「実は、お聞きしたいことがありまして」

「何でしょうか?」

「王子との婚約……順調なのですか?」

「え?」


 カミラは驚いた。なぜ、そんなことを聞くのだろう。

「いえ、実は噂で聞いたものですから。婚約破棄の話が出ているとか」

「そんな話はありません」

 カミラはきっぱりと答えた。

「そうですか。でも、もし万が一……」


 男は一歩近づいた。月明かりが、その顔を不気味に照らし出す。

「もし婚約が破棄されることがあれば、私が貴女を娶りたい」

「は……?」

「私には金がある。権力もある。王子には及ばないかもしれないが、貴女を幸せにする自信はある」


 男の言葉に、カミラは唖然とした。

「あの、私はアシュラン様と——」

「王子は冷たい方だと聞きます。いつも理性的で、感情を見せない。貴女のような可憐な方には、もっと情熱的な男が相応しい」


 男はさらに近づいた。その息遣いが、カミラの肌に届きそうなほど近い。

「私なら、貴女を毎日抱きしめて——」

「やめてください!」

 カミラは後ずさった。だが、背中が手すりに当たる。逃げ場がない。

「怖がらないで。私は本気なのです」

 男はカミラの手を掴んだ。その手は、ぬるりと湿っていて、気持ちが悪かった。

「きゃっ!」

「少しだけ、話を——」

 その時。


「……その手を、今すぐ離してもらえるかな」

 低く、冷たい声が響いた。


 空気が、一瞬で凍りついた。


 男は驚いて振り返った。

 そこには、アシュランが立っていた。

 いつもの穏やかな微笑みを浮かべているが——その瞳は、氷のように冷たかった。月明かりの中で、彼の影が、まるで何かを飲み込もうとするように、揺らめいて見えた。



「あ、アシュラン王子!」

 男は慌ててカミラの手を離した。

「これは失礼を。私はただ、婚約者様と親しく——」


「親しく?」


 アシュランの声は穏やかだった。しかし、その穏やかさが逆に恐ろしい。水面下で何かが蠢いているような、そんな静けさだった。

 一歩、また一歩と、アシュランが近づいてくる。その度に、空気が冷たくなっていく。まるで、彼の周りだけ季節が変わったかのように。


「君が、僕の婚約者に触れていたようだが」

「い、いえ、それは……」

「僕の許可なく、ね」

 アシュランの笑顔が、凍りついた。


 その瞬間、男は気付いた。目の前にいるのは、優しい王子などではない。何か——もっと恐ろしい存在だと。

「あ、あの、これは誤解で——」

「誤解?」 


 アシュランは首を傾げた。その仕草は優雅だが、同時に——悪魔的だった。人形のように滑らかで、人間のように温かくない。


「君は、僕の婚約者に求婚したね」

「そ、それは……」

「婚約破棄の噂があると言ったね」

「い、いえ、あれは……」

「そして——」

 アシュランの瞳が、鋭く光った。


「彼女の手を、掴んだね」

 その言葉と同時に、テラス全体の温度が下がった気がした。月明かりさえも、冷たく感じられる。


「も、申し訳ございません!」

 男は慌てて膝をついた。

「どうか、お許しを!」

「許す?」

 アシュランは静かに笑った。その笑みは、夜の闇よりも深く、暗かった。

「ああ、もちろん許すよ」

 その言葉に、男は安堵の表情を浮かべた。


 だが——。

「ただし」

 アシュランの笑顔が、深く歪んだ。

「君が、二度とこの国に足を踏み入れないことが条件だ」

「え……」

「君の爵位、確か最近購入したものだったね。その資金源、調べさせてもらったよ」

 アシュランは懐から一枚の書類を取り出した。その動作は、あまりにも滑らかで、まるで最初からこの瞬間を待っていたかのようだった。


「不正な取引が、いくつか見つかった。明日には、正式に調査が入るだろう」

「そ、そんな!」

「そして、君の事業。我が国との取引で成り立っているね」

 アシュランは書類をひらひらと揺らした。

「その取引、全て停止させてもらう」

「お、お待ちください! それでは私の事業が——」

「潰れるだろうね」

 アシュランは冷たく微笑んだ。


「でも、それは君の自業自得だ」

 男の顔が青ざめた。

「ど、どうか——」

「ああ、そうだ」

 アシュランは思い出したように付け加えた。

「君が彼女の手を掴んだ時、僕は——」

 その瞳が、恐ろしいほど冷たく光った。

「君の手首を、折ってしまおうかと思った」

「ひっ……」

 男は震え上がった。

「でも、ここは公の場だからね。我慢するよ」

 アシュランは優雅に笑った。

「だから、その代わりに——君の全てを、壊させてもらう」

「お、お許しを……」

「もう遅い」

 アシュランは背を向けた。


「今すぐ、この場から消えてくれ。二度と、彼女の前に姿を現すな」

「は、はい……!」

 男は這うようにしてテラスから逃げ去った。


 その背中を見送りながら、アシュランの笑顔が消える。静寂が戻ってきた。まるで、何事もなかったかのように。けれど、空気はまだ冷たく、張り詰めていた。

「……カミラ」

「は、はい……」

 カミラは恐る恐る顔を上げた。アシュランの表情は、いつもの優しさに戻っている。けれど、その切り替わりがあまりにも早すぎて、カミラは少しだけ恐ろしくなった。


「大丈夫? 怪我はない?」

「は、はい……大丈夫ですわ」

「そうか」

 アシュランはカミラの手を優しく取った。あの男が掴んでいた場所を、丁寧に確認する。

「少し赤くなっている。痛む?」

「いえ、大丈夫です」

「……」


 アシュランはカミラの手をそっと撫でた。まるで、他の誰かが触れた痕跡を消すかのように。何度も、何度も。その指先は優しかったが、どこか執拗で、カミラの肌に彼の体温が染み込んでいくようだった。


「アシュラン様……」

「カミラ」

 アシュランはカミラの瞳を見つめた。

「君は、僕の大切な婚約者だ」

「はい……」

「だから——」

 アシュランはカミラを抱き寄せた。

「誰にも、触れさせたくない」

 その声は優しかったが、同時に——絶対的だった。



 アシュランはカミラを広間の奥、人目につかない小部屋へと連れて行った。廊下を歩きながら、カミラは彼の手の温度を感じていた。いつもより少しだけ熱い。それとも、自分の手が冷たくなっているのだろうか。

「アシュラン様……」

 カミラが尋ねると、アシュランは立ち止まった。

 そして、ゆっくりと振り返る。

「カミラ……」

 アシュランはそっとカミラの髪に触れた。

「ここに、何かついていたよ」

 優しい指先がこめかみを撫でる。ほんの一瞬のことなのに、カミラの心臓は暴れ出した。彼の指が触れた場所が、熱を持って疼いている。

 ——まるで、触れるたびに所有を刻みつけるような仕草だった。


「さっきの男……君に、何か失礼なことを言わなかったかい?」

「え、えっと……」

 カミラは言葉に詰まった。あの男の言葉は確かに不快だったが、アシュランに心配をかけたくない。

「何も……」

「嘘だね」

 アシュランの声が、わずかに低くなった。

「君の表情を見れば、分かる」

「……」

「僕の知らないところで、君が不快な思いをしている」

 アシュランが一歩近づく。カミラは壁に背中を預けた。彼の体温が、空気を伝って肌に届く。

「それが——とても、気に入らない」

 その言葉は静かで、しかし同時に——危険だった。


「あ、あの、本当に大丈夫ですわ。アシュラン様が助けてくださいましたし……」

「そうだね」

 アシュランは笑った。しかし、その笑みはいつもと違う。どこか、歪んでいる。

「僕が助けた。でも、もし僕がもっと遅れていたら?」

「え……」

「もし、あの男が君をもっと——」

 アシュランの手が、カミラの頬を優しく撫でた。


「考えるだけで、正気を保てなくなる」

 その瞳が、危険な光を帯びる。月明かりが窓から差し込んで、彼の顔半分を影にしている。

(アシュラン様……こんなに近くで囁かれたら、心臓がもたないですわ)


 触れられていないのに、身体が熱くなる。カミラの頬が、ますます赤く染まっていく。

「アシュラン様……もしかして、心配してくださっているのですか?」

 カミラが恐る恐る尋ねると、アシュランは静かに笑った。


「心配? そんな生易しいものじゃない」

 その声が、甘く耳元で囁かれる。彼の吐息が、カミラの首筋をくすぐった。


「君に他の男が触れるのを見た瞬間、僕は——」

 アシュランの腕が、カミラの腰を抱き寄せた。

「殺意を覚えた」

「え……」

「冗談だよ」

 アシュランは微笑んだ。しかし、その瞳は——まったく笑っていなかった。


「でも、本当に——」

 カミラをさらに強く抱きしめる。

「あの男の手首を折ってしまいたかった。いや、それだけじゃ足りない。彼の全てを——」

「アシュラン様……」

 カミラは胸の中で、彼の心臓の音を聞いた。激しく、早く鳴っている。

(アシュラン様も……こんなに動揺していらっしゃるのですわ)


「君は僕のものだ」

 その言葉は優しく、しかし同時に絶対的だった。

「他の誰にも渡したくない。他の誰にも見せたくない。他の誰にも——絶対に、触れさせたくない」

 アシュランの手が、カミラの背中をゆっくりと撫でる。ドレスの生地越しに、彼の手の形が分かる。まるで、確認するように。彼女の身体の輪郭を、記憶に刻み込むように。


「もう二度と、一人で人の少ない場所に行かないでほしい」

 アシュランの声が、わずかに震えた。


「僕がいない時は、必ず誰かと一緒に。約束してくれ」

「で、でも……」

「約束して」


 その声には、有無を言わせない響きがあった。

「……はい」

 カミラは頷いた。

 アシュランは安堵したように溜息をついた。そして、カミラから少しだけ離れる。その瞬間、カミラの身体が、急に冷たい空気に触れて震えた。


「ありがとう」

 その笑顔には、いつもの余裕が戻っていた。しかし、カミラには分かる。その瞳の奥に、まだ暗い炎が燃えている。

「アシュラン様……」

 カミラは思わず言葉を続けた。

「そんなに心配してくださるなんて……嬉しいですわ」

 その言葉に、アシュランの表情が緩んだ。

「……君は、本当に」

 アシュランはカミラの額に唇を寄せた。その唇は、熱くて柔らかくて、カミラの思考を一瞬で真っ白にした。

「僕を困らせる天才だね」

 その声は優しかったが、同時に——どこか危うさを含んでいた。

「でも、もう二度と——君を、危険な目には遭わせない」

 その言葉には、深い決意が込められていた。



 その日の深夜、アシュランは執務室で一人、窓の外を見つめていた。

 机の上には、真っ二つに折れたペンが置かれている。インクが、まるで血のように紙の上に滲んでいた。

「……あの男」

 彼は小さく呟いた。

 あの成金貴族が、カミラの手を掴んでいた瞬間を思い出す。

 胸の奥で、何かが燃え上がった。

 独占欲。嫉妬。そして——純粋な、殺意。

「彼女に触れた」

 アシュランは書類を手に取った。あの男に関する調査資料だ。

「それは、許せない」

 書類をめくる。不正取引の証拠、脱税の記録、あらゆる不正が記されている。

「明日には、全ての事業を停止させる。爵位も剥奪。この国から追放」

 唇に、冷たい笑みが浮かぶ。

「いや、それだけでは足りない」

 別の書類を取り出す。

「君が今まで取引していた全ての国に、君の不正を通達しよう。どの国でも、もう商売はできない」

 書類を閉じる。

「カミラには、こんな僕を見せるわけにはいかない」

 窓の外を見る。月が、冷たく光っている。

「彼女が、他の男に触れられている姿を見て、僕は——」

 小さく笑った。

「ああ、駄目だな。本当に、あの男を殺してしまいたかった」

 だが次の瞬間、その瞳は冷たく光った。

「……でも、殺すより苦しい方法がある」

「全てを奪う。地位も、財産も、未来も」

「それが、彼女に触れた代償だ」

 机の上の書類を見る。そこには、会議の議事録が書かれているはずだった。

 しかし、ページの端に——「カミラ」「カミラ」「カミラ」と、何度も何度も、彼女の名前が書き連ねられていた。

 そして、その下に——「触れるな」「近づくな」「僕のもの」という言葉が、乱雑に書き殴られていた。まるで、誰かに呪いをかけるように。

「……本当に、いつまで我慢できるだろう」

 アシュランは拳を握った。

「結婚したら——もう、誰にも君を見せない」



 婚前交渉バトル——恋する令嬢は、まだ知らない。

 自分が無意識に仕掛けた独占欲の罠が、どれほど危険なものであるかを。

 王子の嫉妬が、どれほど深い執着から生まれているかを。

 そして、その執着が——すでに、実際の行動に移されていることを。

 愛する人を守るため。

 愛する人を独占するため。

 愛する人に触れた者を——完全に破滅させるため。

 だが、カミラは今日も無邪気に、次の作戦を練っている。

 愛する人の心を、もっと自分に向けたくて。

 知らずに、彼の独占欲を——さらに刺激していく。


 月明かりが、二人の部屋を照らしていた。

 一人は、愛する人の優しさに胸を高鳴らせながら。

 もう一人は、誰にも見せられない闇を抱えながら。

 それでも、二人の想いは——確かに、同じ方向を向いていた。

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