Round.5

 恋する乙女の武器は、時として自らの美しさである。

 特に、それが計算された変身であるならば——


 燦々とした朝の太陽が差し込む自室で、カミラは鏡の前に立っていた。


「今日は少し、いつもと違う自分になってみましょうか」

 ライネルとの作戦でアシュランの嫉妬を引き出すことには成功した。でも、まだ足りない。もっと決定的な何かが必要だった。


「今日こそ、アシュラン様を完全に虜にしてみせますわ」


その日の午後——

 王宮の廊下に、一人の美しい女性が現れた。

 いつものカミラとは違う、エレガントにまとめ上げられた髪。深い紫のドレスが、彼女の大人っぽい魅力を引き立てている。


廊下ですれ違う人々が、みな振り返って彼女を見つめた。


「あれは……カミラ様?」

「まあ、なんてお美しい」

「いつもと雰囲気が全然違いますね」


若い騎士の一人が声をかけてくる。カミラは上品に微笑んで応える。普段なら天真爛漫に笑うところだが、今日は大人っぽさを意識していた。


その時——

 二人の目が合った——

 アシュランの足が止まった。

 彼の瞳が大きく見開かれ、口がわずかに開く。まるで呼吸を忘れたかのように、じっとカミラを見つめていた。


「アシュラン様」

 カミラは優雅にカーテシーをする。普段の軽やかな挨拶とは全く違う、洗練された動作だった。


「カミラ……」

 アシュランの声がかすれていた。いつもの穏やかな微笑みが、どこか緊張したものに変わっている。


「今日はお時間はございますか?」

「あ、ああ……もちろん」

 アシュランは慌てたように頷いた。そして、カミラの周りに集まり始めた男性たちに気づく。

 彼らはみな、カミラの美しさに見惚れていた。

 その瞬間、アシュランの瞳に危険な光が宿った。


「カミラ、少し話がある」

 いつもより低い声だった。そして、有無を言わせない調子で。


「はい」

 カミラは素直に応える。しかし、内心では小躍りしていた。作戦は明らかに効果を上げている。


「今すぐ、僕の部屋に来てもらおう」

 アシュランの声に、いつもの穏やかさは微塵もなかった。カミラの手首を掴む手に、思わず力が込もる。

 その瞬間、彼の魔法が激しく漏れ出した。王族の血に流れる強大な魔力が、嫉妬の炎と共に空気を重く震わせる。廊下の魔法陣が一斉に明滅し、壁の肖像画がざわめくように揺れた。

 周囲の男性たちが、恐怖すら感じて後ずさりする。


「アシュラン様……?」

 カミラは息を呑んだ。これほど感情を露わにするアシュランを見るのは初めてだった。普段の理性的な王子はどこにもいない。


「君をこれ以上、他の誰かに見せるわけにはいかない」



アシュランはカミラを自分の私室へと引きずるように連れて行った。扉を乱暴に閉めた瞬間、部屋中の魔法陣が彼の感情に反応して脈動する。普段は穏やかに光る魔石たちが、今は不安定に明滅していた。


「アシュラン様、一体……」

 カミラが振り返ろうとした瞬間、アシュランは彼女を壁に押し付けた。両手を壁について、カミラを挟み込むように立つ。


「君は……君は分かっているのか?」

 アシュランの声が荒い。普段の優雅な話し方とは全く違う、感情的な響きだった。彼の胸の奥では、理性と欲望が激しく渦巻いている。カミラの美しさが他の男たちの視線を集めるたび、血管を流れる怒りのような熱さが全身を駆け抜けた。


(僕は一体何をしているんだ)

 心の中で自分に問いかける。王族として、婚約者として、紳士として——あらゆる立場が彼に理性を保てと囁いている。しかし、カミラを見つめる男たちの眼差しを思い出すたび、胸の奥で何かが燃え上がってしまう。


「何を……」

「あんな格好で、他の男たちの前に現れるということが、どういうことか」

 アシュランの瞳が、危険なほど暗く燃えていた。自分でも驚くほど、声に嫉妬が滲んでいる。


(君だけを見ていたい。君だけに見られていたい)

 その想いが、理性の壁を少しずつ崩していく。普段なら決して口にしないような言葉が、喉元まで込み上げてくる。


「私は、ただ……」

「ただ?」

 アシュランがさらに近づく。カミラの鼓動が聞こえそうなほど近くに。彼女の緑の瞳が、困惑と何か別の感情で揺れているのが見えた。


(この距離で見つめられると、もう何も考えられなくなる)


「君の美しさに見とれている男たちを見て、僕がどんな気持ちになるか、考えたことがあるのか?」

 その声は低く、威圧的で、同時に切ない響きを含んでいた。アシュラン自身、自分がこんなに感情的になれるとは思っていなかった。


「アシュラン様……」

「全員、引き裂いてやりたくなった」

 アシュランの手が、カミラの頬を激しく撫でる。優しくではなく、まるで確認するように。


「君は僕のものだ。僕だけが見ていればいい。僕だけが触れていればいい」

 その瞬間、室内の魔法陣すべてが激しく光った。アシュランの独占欲が、魔法となって部屋全体を支配する。


「こんなに……こんなに君を欲しているのに」

 アシュランの額がカミラの額に触れた。二人の息遣いが混じり合う。


「なぜ僕は、まだ君を抱くことができないんだ……」

 カミラは震えていた。恐怖からではない。アシュランの激しい想いに、心臓が激しく鼓動していたからだ。今まで感じたことのない高揚感が、全身を駆け抜けていく。


「アシュラン様……」

「ああ、分かっている」

 アシュランは突然身体を離した。まるで自分自身に冷や水を浴びせるように。その瞬間、カミラは思わず小さく息を吐いた。安堵なのか、それとも物足りなさなのか、自分でも分からない。


「僕は……僕は何をしているんだ」

 彼は髪をかき上げながら、部屋の向こうへ歩いて行く。その後ろ姿に、カミラは胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。


「君を怖がらせるつもりはなかった」

「怖くなんてありません」

 カミラは慌てて答えた。本当に怖くない。むしろ、もっとアシュランの本心を知りたいと思う。でも、その気持ちを言葉にするのは恥ずかしくて、頬が熱くなる。


「でも、このままでは……」

 アシュランは窓に手をついて、外を見つめる。カミラは彼の横顔を見つめながら、胸がドキドキするのを感じていた。いつもの優しい王子ではない、もっと人間らしいアシュランを見ることができて、何だか特別なものを見せてもらった気分だった。


「君を、本当に誰にも渡したくなくなってしまう」

 その言葉に、カミラの心は跳ねた。嬉しさが胸の中で弾ける。アシュランがこんなに自分のことを……。


「それなら……」

「だめだ」

 アシュランは振り返った。その瞳に、理性と欲望の激しい戦いが見えた。カミラはその葛藤している表情さえも、愛おしく思えてしまう。


「君は僕の大切な婚約者だ。だからこそ、君を守らなければならない」

 アシュランはそう言いながら、壁に拳を当てた。音を立てないよう力を抑えているが、その手は震えている。


(こんなに君を求めているのに、僕は一体何をしているんだ)

 心の中で、彼は自分自身と戦っていた。王族として受けた教育、紳士としての矜持、そして婚約者を守るべき責任——全てが彼に理性を保てと命じている。しかし、カミラを見つめているだけで、胸の奥が燃えるように熱くなってしまう。


「守るって……私を、何から?」

 カミラの純粋な問いかけに、アシュランは苦しそうに表情を歪めた。


「僕自身からも、だ」

 アシュランの声が、自嘲的に響いた。彼は魔法で冷たい風を起こし、火照った頬に当てる。自分を鎮めようと必死にもがいているのが、カミラにも分かった。


窓辺に向かい、外の景色を見つめる王子の姿は、まるで檻の中の獣のようだった。本能と理性の間で引き裂かれ、苦悩している。


「今の僕は危険すぎる。君といると、理性を失ってしまいそうになる」

 窓枠を握る彼の手に、うっすらと霜が付いている。感情を制御するために、無意識に氷の魔法を使っているのだった。部屋の温度が下がり、カミラの息が白くなる。


(アシュラン様……そんなに苦しまないで)

 カミラは彼の後ろ姿を見つめながら、胸が締め付けられるような思いだった。自分のせいで、こんなにもアシュランを苦しめているのかと思うと、罪悪感が湧いてくる。


「でも、私は……」

 カミラが一歩前に出ようとした時、アシュランは振り返った。


「近づかないでくれ」

 その声は優しいが、有無を言わせない響きがあった。


「今、君に触れてしまったら……」

 アシュランの瞳が、再び危険な光を宿す。理性の糸が、今にも切れてしまいそうなほど細くなっていた。


「もう二度と、君を離すことができなくなるかもしれない」


「でも、お約束してくれるかい?」

「何を?」

「その美しさは、僕だけのものだと」

 カミラは微笑んだ。


「もちろんですわ。私のすべては、アシュラン様のものです」

 その言葉に、アシュランの魔力が再び室内を満たした。今度は穏やかな、温かい光だった。


「ありがとう」

 アシュランは振り返って微笑んだ。しかし、その笑顔の奥に、まだくすぶる炎があるのをカミラは見逃さなかった。


「それでは、今日はこの辺りで」

「はい」

 カミラは部屋を出ようとして、ふと振り返った。


「アシュラン様」

「何だい?」

「今日のお洋服、お気に召しましたか?」

 アシュランの瞳が一瞬燃え上がった。


「……美しすぎて、困ってしまう」

 その言葉に、カミラは満足そうに微笑んで、部屋を後にした。



廊下を歩きながら、カミラは胸に手を当てた。心臓はまだ激しく鼓動している。


「今日の作戦は大成功でしたわ」

 アシュランの独占欲と嫉妬を、これほど明確に引き出せたのは初めてだった。でも、同時に胸の奥がキュンとするような、複雑な想いもある。


あの時のアシュランの苦しそうな表情が頭から離れない。壁に拳を当てて、冷たい魔法で自分を制御しようとしていた姿。彼があんなに自分を求めているのに、同時に自分を責めている。


「私のしていることは……本当に正しいのでしょうか」

 足を止めて、石造りの壁に手を当てる。冷たい感触が、火照った頬を少し冷やしてくれた。アシュランを追い詰めているような気がして、胸が痛む。でも、彼の本心を知ることができたのも事実で——。


「でも、あれが本当のアシュラン様の気持ちなのですよね……」

 カミラは『淑女のための恋愛指南書』を取り出した。本がほんのりと温かく光る。


「次はどうしましょうか……」

 ページをめくると、新しい文字が浮かび上がった。


『第七の秘訣:心の隙間を埋める——王子の弱さを見つけること』


「王子の弱さ……」

 カミラの瞳が輝いた。今日、アシュランの新たな一面を見ることができた。彼の独占欲、嫉妬、そして理性との戦い。あの苦しそうな表情も、全部本当の彼の気持ちだったのだろう。


「次はもっと、アシュラン様の心に寄り添う作戦を考えましょう」

 その時、感情の高ぶりで小さな花の魔法が宙に舞った。薄紫の花びらが、カミラの周りを舞い踊る。今日の興奮がまだ収まらないのか、いつもより多くの花が咲いて、廊下がまるで花園のようになってしまった。


「また魔法が暴発してますわ……」

 カミラは慌てて花びらを散らそうとした。その時、角の向こうから掃除中の侍女が現れる。


「まあ、カミラ様!廊下に花が……」

 侍女は目を丸くして花びらの絨毯を見つめた。


「あ、あの……これは……」

 カミラは真っ赤になって言い訳を探したが、何も思い浮かばない。感情の暴発で魔法を制御できませんでした、なんて恥ずかしすぎる。


「お掃除、お手伝いいたします!」

 カミラは侍女と一緒に花びらを片付けながら、頬を染めていた。

 

 でも、今日は特別だった。花びらが舞い散る中で、カミラは新たな決意を胸に刻んでいた。

 婚前交渉バトル——恋する令嬢の挑戦は、まだまだ続いていく。

 

 ただし、今度は魔法の制御も気をつけながら。

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