第2話 悪女の婚約発表

「里原 美月」


 それが前世の私の名前だった。


 母親の連れ後だった私は、母の再婚相手や兄たちから空気のように扱われて育ってきた。家に帰っても私の分のご飯だけ廊下に置かれていて、家族と食事を食べたい記憶はほとんどない。


 その状態に慣れているように振る舞っていたし、涙を流したことはなかったが悔しかった。耐え続けるのも限界で、高校を卒業すると同時に会社に就職して家を黙って出て行った。


 私は家族のありがたさや温もりは理解できないまま育ってきた。だから働き出してからは一人で生きていくために必死で働いた。そのおかげもあって、会社では最年少で部長という役職に就くこともできた。


 ただ生きていくため。何か楽しみや目的があったわけじゃなかったが、人一倍生きていくことへの執着だけは強いと自負していた。


「お嬢様、ようやく皇宮に入りますよ」


 ローエンの声にハッとしながら、馬車から外を眺める。目の前には豪華絢爛な白亜の宮殿が輝いている。周囲は要塞のように堅固だったが、城の周囲は美しい庭園と一本道になっており、馬車の列がゆっくりと進んでいた。


「まさに、世界遺産ね…」


「世界、遺産とはなんですか?」


 ローエンが首を傾げていたが「なんでもないの」と受け流す。


 ここから先は私を殺す暴君皇帝の領域だ。前の人生は呆気なく死んでしまったが、今回の人生は生き残ろさえすればお金持ちのお嬢様で幸せな贅沢ライフを楽しめる。


 もちろん生き残らなければ悲惨の死を遂げるが、聖女や男主人公たちと関わらなければ私が殺される理由はない。


 小説内で出てくる主人公の功績やお金儲けをちょっとだけ利用させてもらいつつ、決して害は与えず善良な伯爵令嬢として生きる。

 これが今の私の計画だ。


 そのためにも、まずは最初のミッションを成功させないといけない!


 ミッション1:皇帝との婚約破棄!


 最初から高難易度だが、皇帝と関わることが一番危険だ。これを回避するには工程から婚約を破棄させることが重要だ。


 なぜなら私から婚約破棄を申し出て皇帝の威厳を底なえば、その瞬間私の首が飛ぶかもしれないからだ。


 思わず自分の首が飛ぶのを想像してしまい、冷や汗が出てくる。首元に触れるが、もちろんまだ私の首は健在だ。


(この機を逃すと、いつ聖女が誕生するかわからないから…。まずは大々的に婚約の発表がされる前に皇帝陛下に誰にも見られないところで会わないと!)


 正直皇帝とふたりになるのは避けたい。

 だが皇帝にとっては、ワガママで粗暴と噂される伯爵令嬢などとの婚約は初めから望んでいなかった。伯爵家との取引は生かしたまま、婚約は無かったことにしてほしいと土下座してでも頼めば聞き入れてくれるだろう。


(伯爵は皇帝と娘が結婚することを条件に、皇帝に各国から仕入れた軍事機密などの情報を流すという取引をしていた…。まだ伯爵には会ってないけど、どこまで娘を溺愛しているなら、私の願いも聞き入れてくれるはず!)


 やっぱり皇帝は私の好みじゃ無かった、とかいかにもワガママ娘らしいことを言っておこうと短絡的に考えていた。


 そんなことを考えていたら、ついに舞踏会会場の扉の前まで来てしまった。


 手に汗を握りながらも、私は性格の悪そうな悪役令嬢らしい笑みを浮かべて覚悟を決めた。


「オルフェシア伯爵家より!シルフィア嬢のご到着です!」


 重厚な門が開くと、会場の光が漏れ出す。

 眩しさで少し目を細めながら、私は一歩ずつ優雅に前に出た。


 会場に入った瞬間、ひそひそと噂をする声が聞こえる。

 いや、噂というよりはわざと聞こえるように話している声も多い。


「まあ、図々しい。成り上がりの伯爵家のくせに、性懲りも無くまた皇帝陛下に付き纏うおつもりかしら」


「伯爵は清廉な人だが、娘は横暴でいつも問題ばかり起こしているそうじゃないか。この前も招待されていないお茶会に来たと思ったら、茶を令嬢たちにかけて笑っていたとか…」


「まあ恐ろしい。陛下と伯爵の顔に泥を塗るつもりね」


 シルフィアの評判は地の底だが、正直こんな言葉や扱いは前世でなれている。

 社会に出れば、高卒だの若いくせに可愛くないだの、仕事しか取り柄がないだの散々言われてきた。


(生き残るためなら、こんなの屁でもない)


 ワインを受け取り、出入り口から少し進んだ壁側に寄りかかる。


(今は目立たず、皇帝とふたりになるチャンスを窺わないと。ここなら王座も会場も見えやすい)


 ワインをひと口飲み込むと、目の前に一人の令嬢とその取り巻きが数人がやってきた。

 まるで私を見下すように睨め付けながら、令嬢は口を開いた。


「ご機嫌よう、シルフィア嬢。この前は素敵な紅茶をどうもありがとう」


(お茶?もしかして…)


 さっき噂話されていた、お茶会で茶をかけられたという令嬢だろうか。


「まあ、なんて無礼なのかしら。ステージア嬢がご挨拶しているのに睨みつけるなんて!」


(ステージア?もしかして、ステージア・ミルシア子爵令嬢?)


 このステージアという令嬢は、原作にも出てきた。

 聖女を心から慕い、聖女をいじめるシルフィアを許せず幾度とシルフィアの暴挙から聖女を守る手助けをしていたキャラクラーだ。


(すごい、小説の中の主要キャラクターに出会えるなんて!)


 私は原作の大ファンとして、つい嬉しくなってキラキラした視線を送ってしまう。


「な、なんなのかしら! 変な目で私を見て、まさか今度はそのワインをかけるつもりじゃないでしょうね⁉︎」


 どうやらステージアとシルフィアは、聖女を抜きにしても犬猿の仲だったようだ。

 シルフィアは有名な悪女として通っていたから、この状態にも納得はできる。


(でも、ここで騒ぎを起こすのもこれ以上私の評判が悪くなるのも、生き残る上では危険になる)


 皇室が主催する舞踏会で騒ぎを起こしたとなれば、必ず皇帝の耳にも届く。

 今更評判を良くする必要はない。だが最低限の礼儀を尽くして目をつけられないようにしなければ、私の命は危ういままだ。


 私は一歩前に出ると、ステージアとその取り巻きはびっくりして一歩後ずさる。


「な、こんなところで何を…!」


「申し訳ございませんでした、ステージア嬢、皆様」


 私が腰を低くして頭を下げる姿に、会場中がどよめく声が聞こえた。

 それもそうだろう。これまでどんな悪事を働いても、シルフィアが誤ったことは一度もない。それは、皇帝に切り刻まれる瞬間もそうだった。


「あ、あなた、どういうつもりかしら!」


「謝れば許していただけるとは思いません。しかし、今の私にはこれしかできないので、どうかこの場は私の軽い頭ひとつで見逃していただけないでしょうか。お詫びは後日必ずいたします」


 あのプライドの塊であるシルフィアが、頭を下げるだけでなく詫びを入れてくる。その後継に会場中が唖然としていた。


「な、そんなもの結構ですわ!私に今後一切、関わらないでくださいませ!行きますわよ!」


 ステージアと取り巻きたちは、謝罪に逆に出鼻をくじかれた様子で、そそくさと退散していった。

 これ以上の騒ぎになる前に引き上げてくれてホッと胸を撫で下ろした。


(ここで言い争いしている場合じゃない。これからが危険なんだから)


 手に持っていたワイングラスをテーブルに置くと同時に、ラッパが会場中に響き渡り、皆の視線が王座に向けられた。


(いよいよ、お出ましね!)


「皇帝陛下、ご入場ー!」


 私を含め、会場中の貴族たちが首を垂れた。


 カツ、カツ…


 ゆっくりと靴の音が会場に響き渡る。

 軽やかなようで、頭に響き渡るこの音はなんとも言い難い圧迫感があった。


「皆、表を上げよ」


 頭を上げる前から、頭が痺れるような感覚と寒気を感じた。



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