第16話 オクタヴォス 「八魔将」

地の底を思わせるような漆黒の広間。


天井は闇の霧に覆われ、壁には形の定かでない魔法陣が浮かび上がっていた。


そこに八つの影が集う。




その中心に立つのは、仮面の魔族――ザハリエル。


彼は静かに周囲を見渡し、報告を始めた。




「……人間の王国で、少々面白い出会いがあった」




「面白い?」


鼻で笑ったのは、筋骨隆々とした巨体の魔族――《戦鬼》グロウザル。


体中を黒鉄の鎧で覆い、腕からは絶えず赤黒い瘴気が漏れ出している。


「貴様にしては妙な言い回しだな。人間の貴族どもを弄んでいたのではないのか」




「弄んでいたつもりが、思わぬ邪魔が入ったのさ」


ザハリエルの声は、仮面越しでも愉快そうに響いた。


「――追放された闇の魔法使い、ディラン」




その名が告げられると、会議の空気が変わる。




「闇魔法使い……だと?」


低く唸るのは、《屍姫》モルティア。死人のように白い肌、紅の瞳を持つ女魔族だ。


「そんな存在、人間の歴史からはとうに消え去ったはず……」




「確かに消え去ったと思われていたが、実際は生きていた。しかも、我らの魔力をもってしても凌駕されかねぬほどに、だ」


ザハリエルは腕を組み、仮面越しに周囲を見渡した。




「……興味深い」


呟いたのは、《幻奏》リュシフェル。優雅な衣をまとい、琵琶のような楽器を携えた妖艶な魔族。


「闇を操る人間……魔王様がお戻りになった暁には、使い道があるかもしれない」




「馬鹿を言え!」


戦鬼グロウザルが机を叩くように拳を振るい、石の床が砕け散った。


「人間は滅ぼすべき存在だ! 我ら八魔将の使命はただひとつ――魔王様を復活させ、人間どもを絶滅させること!」




「ふふ……滅ぼす前に、愉しませてもらってもいいでしょう?」


リュシフェルは肩を竦め、唇に笑みを浮かべる。




そのやりとりを冷ややかに見ていたのは、《氷葬》セリュネ。


白銀の髪を持つ冷徹な女魔族で、その瞳は氷の刃のように鋭い。


「……いずれにせよ、魔王様は未だ眠りの中。


我らが集い、次代の大儀を果たすには“生贄”と“混乱”が必要。王国に揺さぶりをかけ続けるのは無駄ではない」




ザハリエルはゆっくりと頷いた。


「その通り。俺はあの闇魔法使いを試しただけだ。だが、あの存在は放置すれば我らの計画に障害となる」




「障害ならば……潰すだけ」


短く答えたのは、《影刃》ヴァルゼル。痩身で無口な魔族、ただその背からは幾百もの影の刃が蠢いている。




「まあまあ、慌てることはありません」


最後に声を上げたのは、《飢獣》オルグラ。異形の獣のような姿を持ち、涎を垂らしながら笑う。


「人間どもが絶望に沈む様を、じっくりと眺めるのも楽しいでしょう?」




八魔将――オクタヴォス。


その全てが揃ったわけではなかったが、集まった者たちの言葉だけで、王国を覆う闇の気配は増していった。




ザハリエルは最後に言葉を締めくくる。




「魔王様の復活のために……我らは影を広げる。


そして――その道を阻むなら、闇の魔法使いとて容赦はせぬ」




広間に響いた笑い声は、やがて闇に溶け、虚空に消えていった。






夜空を焦がす炎が、大地を真紅に染めていた。


かつて豊かな鉱山と交易で栄えた国――バルゼナ王国。その国境付近の都市が、突如として現れた魔族の軍勢によって蹂躙されていた。




炎の中心に立つのは、一人の巨影。


背丈は人の二倍、全身は燃え盛る炎の甲冑に包まれ、その眼窩は赤黒い光を宿している。




「人間どもよ……燃え尽きろ」




低く響いた声と共に、炎が津波のように押し寄せ、街を飲み込んだ。


八魔将の一角――《紅蓮王》イグナド。


彼はただ一人で、都市ひとつを一夜にして焼き滅ぼしたのだった。




逃げ惑う人々の悲鳴が響く中、イグナドはただ冷笑を浮かべていた。


「魔王様の復活を前に、血と炎の供物を捧げるのも悪くはあるまい……」




――その夜、バルゼナ王国の半分が炎に呑まれた。







数日後、レグナント王国 王都ラグランジェ




王城の謁見の間に、一人の使者が駆け込んでいた。


その身なりは乱れ、鎧は焦げ、顔には疲労が刻まれている。




「お願いです……! どうか我らバルゼナと同盟を!」


使者は玉座の前で跪き、必死に訴える。


「我が国は八魔将の一人――《紅蓮王》イグナドの襲撃を受けました! 国境の要塞も、都も……すでに……!」




レオニール王子が眉をひそめる。


「イグナド……炎を操る魔族か。まさか本当に一国を滅ぼすほどの力を……」




セレナ姫が不安げに王妃を見る。


「母上……王国だけでなく、すでに周辺諸国にも被害が……」




ディアナ王妃は深刻な面持ちで頷いた。


「これは人間同士の争いではありません。魔族の影響は大陸全土に広がりつつある……」




そこに、静かな声が響いた。




「同盟を結ぶか否かは、王家の判断だ」


黒衣の魔法使い――ディランが一歩前に出る。


「だが、はっきり言っておく。魔族はすでに“国境”という概念を越えている。


放置すれば、次に狙われるのは……間違いなくこの国だ」




謁見の間に、沈黙が落ちた。




アルノルトが口を開く。


「確かに、魔族に抗するには力を合わせるしかない。しかし、同盟は同盟で……利害の衝突や、裏切りの恐れもある」




使者は必死に頭を下げる。


「ですが……このままでは我が国は滅亡します! どうか……どうかお力を……!」




レオニール王子は静かに目を閉じ、そして開いた。


「……分かりました。まずは会議を開きましょう。人間同士で分断されている時ではない。魔族は我らすべてにとって脅威なのだから」




ディアナ王妃が頷く。


「よいでしょう。各国に使者を送り、情報を共有します。その上で……対魔族の連合を模索すべき時が来たのかもしれません」




セレナ姫は小さく息をついた。


「ならば……戦いは、もう後戻りできないのですね」




窓の外、空は赤黒く染まり始めていた。


それは遠くで燃え盛るバルゼナの炎が、風に乗って映し出されたものであった。






村の朝は早い。秋の収穫を控えた畑には、朝露に濡れた葉が朝日にきらめき、村人たちは笑い声を交わしながら作業に精を出していた。子どもたちの歓声、鶏の鳴き声、鍋で煮込む香ばしい匂い――戦乱の影が忍び寄るこの時代にあっても、ここには確かな「暮らし」があった。




 その静けさを破るように、森の方から乾いた衝撃音が響く。振り返った村人たちの視線の先には、双剣を手にした少女の姿があった。




「ふっ……はあっ!」




 鮮やかな剣筋が空気を切り裂き、草陰から飛び出してきた魔物――黒毛の大猪が、絶叫とともに地面に倒れ伏す。少女は肩で息をしながら双剣を払った。




「……よし、また一匹」




 セリナである。商人の娘でありながら剣を好み、村に迫る小規模な魔物を幾度となく退けてきた。まだ粗さはあるが、その鋭い目つきには恐れよりも闘志が宿っていた。




 駆け寄ってきた村の男たちが口々に言う。


「助かったよ、セリナ」


「お前が居てくれると心強いな」




 セリナは肩をすくめ、汗を拭う。


「放っておいたら畑が荒らされるでしょ。私も鍛錬になるし、一石二鳥よ」




 そのやり取りを少し離れた場所から眺めていたのはディランだった。彼は森に薬草を採りに来ていたのだが、偶然セリナの戦いを目にしたのだ。




(動きは荒いが、あの胆力は大したものだ。経験を積めば、剣士として一流になれるだろう)




 彼は心の中でそう評しながらも、声をかけることはしなかった。ただ静かに、その背中を見届ける。







 昼下がり、領主館の庭には子どもたちの笑い声が響いていた。ミュナが子どもたちに手作りの木剣を渡し、追いかけっこをしている。彼女自身もまだ年頃の少女だが、笑顔にはかつて盗賊に攫われた影は薄れ、明るさを取り戻しつつある。




「ミュナお姉ちゃん、またやって!」


「ふふ、もう一回? よーし、次は捕まえちゃうからね!」




 その様子を縁側から眺めているのは、エルシアだった。長い銀髪のエルフは、膝の上に薬草の束を広げ、器用に仕分けをしている。




「村が平和であることは、何よりの薬になる……」


 小さく呟くその声は、涼やかな風に溶けて消えた。







 やがて、ディランは領主館の広間に皆を集めた。長い会議机の奥にはライナルト領主、その隣にリリアーネ、少し離れてクラリスが控えている。セリナや、ミュナ、エルシアも呼ばれていた。




 広間は張りつめた空気に包まれていた。ディランは一歩進み出て、口を開いた。




「……王国からの命により、私は使者としてバルゼナ王国へ赴くことになりました」




 言葉を告げると同時に、広間の空気がどよめいた。




「ディラン殿、他国への使者とは……それほど事態は切迫しているのか?」


 ライナルトの低い声が響く。




「はい。魔族の脅威は我が国だけの問題ではありません。既に隣国をも襲い始めている。そこで各国で同盟を結び、対抗する必要があると」




 領主は深く頷き、眼差しを鋭くする。


「……なるほど。お前ほどの力を持つ者が行くことで、交渉も重みを増すだろう」




 リリアーネが椅子から立ち上がり、声を震わせながら言った。


「でも……危険ではありませんか? 他国に赴くなんて……」




 クラリスが姪の肩にそっと手を置く。


「リリアーネ、ディラン殿なら大丈夫よ。けれど……気をつけて、という言葉は私からも贈りたいわ」




 セリナは腕を組んだまま、やや不満げに口を開く。


「また危険なことに首を突っ込むんだな。……置いていかれるこっちの身にもなってほしい」




 その声音には、苛立ちと同時に、彼女なりの寂しさが滲んでいた。




 ミュナは心配そうに言葉を継ぐ。


「でも……ディランさんが行くなら、きっと大丈夫ですよね」




 エルシアは静かに目を閉じ、祈るように囁いた。


「光が闇を呑まぬよう……精霊たちの加護が、あなたにありますように」




 ディランは皆を見回し、柔らかく笑った。


「心配をかけてすまない。だが、これは避けて通れない役目だ。必ず戻ると約束する」




 その言葉に広間の空気が少し和らいだ。ライナルトが席を立ち、力強く告げる。


「ならば、この村と我が家は全力でお前の帰りを待とう。出立の日まで、盛大に送り出してやるぞ」





こうして村は、英雄を送り出すために小さな祭りのような宴を開くこととなった――。


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