第9話 リーベンフェルト家

 マキシミリアン様との婚約が決まると、事態は驚くほど早く進んだ。


 お父様とマキシミリアン様が手続きを迅速に進めてくださり、私は慌ただしく荷物をまとめて実家を出ることになった。




 馬車に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。


 見慣れた王都の景色が、ゆっくりと流れていく。貴族街の立派な屋敷が並ぶ通り、色とりどりの花が咲く公園、賑やかな市場の喧騒。華やかな社交界の記憶が詰まった場所。かつて成功を収めたパーティー会場の前を通り過ぎると、様々な思い出が脳裏を過ぎる。


 新しい関係。新しい生活。


 不安がないと言えば、嘘になる。マキシミリアン様は誠実な方だと感じたけれど、あれからまだ数回しか会っていない。お茶を共にしながら、これからの生活について話し合った。彼の希望、私の役割、互いの期待――それらを確認し合った。だけど、実際に一緒に暮らすとなれば、また違った困難があるかもしれない。


 それに、家族の方々とも初対面だ。マキシミリアン様の母君であるエレオノーラ様、弟たち、妹たち。彼らは、評判の悪くなった私を、本当に受け入れてくれるのだろうか。


 『妹から功績を横取りした女』という噂は、もう王都中に広まっている。ヴァンデルディング公爵家が公式に私を非難したことで、その噂に信憑性が与えられてしまった。リーベンフェルト家の人々も、その噂を耳にしているかもしれない。


 私は、その人たちに受け入れてもらえるだろうか。上手くやっていけるだろうか。嫌われたり、拒絶されたりしないだろうか。


 そんな不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。


 けれど同時に、期待もある。


 リーベンフェルト家では、私の知識と経験を必要としてくれている。役に立てる場所がある。私の実力を、正当に評価してくれる人がいる。マキシミリアン様は『期待している』と、はっきり言ってくれた。その期待に応えたい。


 前向きに、新しい一歩を踏み出そう。過去に囚われず、未来を見据えよう。


 そう自分に言い聞かせながら、私は深呼吸をした。胸に手を当てて、高鳴る鼓動を落ち着かせる。大丈夫。きっと、大丈夫。




 やがて馬車が緩やかに速度を落としていく。


「お嬢様、間もなくリーベンフェルト侯爵家に到着いたします」


 御者が声をかけてくれた。私は姿勢を正して、身だしなみを整える。髪は乱れていないか、衣服に皺はないか。確認をしながら、心の準備を整える。


 馬車が完全に停まり、御者が扉を開けてくれる。差し出された手を取って降りた先に広がっていたのは、アルトヴェール家とはまた違った雰囲気の屋敷だった。


 華美な装飾は少ないが、堂々とした佇まい。石造りの重厚な壁、簡素だが力強い門構え、実用性を重視した設計。軍人の家らしい、飾り気のない実直さが漂っている。けれど、荒々しいわけではない。庭園は丁寧に手入れされており、玄関前の石段も清潔に磨かれている。


 力強さと誠実さが同居した、そんな印象を受けた。マキシミリアン様のよう。


 私は姿勢を正して視線を前に、緊張を隠しながら歩き始めた。一歩、また一歩と。石段を上る足音が、やけに大きく聞こえる。


「ようこそ、リーベンフェルト家へ」


 玄関で最初に出迎えてくれたのは、温かな笑顔を浮かべた女性だった。彼女こそが、マキシミリアン様の母君であるエレオノーラ様だろう。


「あなたが、セラフィナさんね」


 五十代と思われる、柔らかな栗色の髪。その髪には、わずかに白いものが混じっているが、それがかえって優雅さを増している。優しい茶色の瞳は、穏やかな光を湛えていた。シンプルだが品のある深緑色のドレスを身に纏い、母親らしい落ち着きと包容力を感じさせる。


 けれど同時に、どこか影のようなものも感じられた。夫を戦場で失った未亡人としての、静かな哀しみ。それでも家族を支え続けてきた、強さと優しさ。


 マキシミリアン様のお母様、エレオノーラ・リーベンフェルト夫人。彼女に関して、マキシミリアン様から少しだけ聞いていた。


『母は強い人だ。父が戦死した後も、決して取り乱さず、家を守り続けてくれた。俺たち兄弟を立派に育て上げ、リーベンフェルト家の名誉を守ってくれた。尊敬している』


 そう語るマキシミリアン様の声には、深い敬意が込められていた。


「初めまして、エレオノーラ様。セラフィナ・アルトヴェールと申します。本日から、お世話になります」


 私は丁寧に一礼した。けれど、エレオノーラ様は形式的な挨拶は気に入らなかったみたい。


「まあまあ、そんなに堅苦しくしなくて良いのですよ」


 彼女は優しく微笑むと、私の方へと歩み寄ってきた。そして私の両手を、自分の手で優しく包み込んでくれた。


 その手の温もりは、言葉にできないほど優しかった。少し冷たくなっていた私の手を、彼女の温かい手が包む。まるで、全ての不安を溶かしてくれるような、母親の温もり。


「これから、あなたの家でもあるのですよ。セラフィナさん」

「……はい」


 エレオノーラ様の瞳を見つめると、そこには純粋な歓迎の気持ちがあった。作られた笑顔ではない、心からの温かさ。義理で迎えているのではなく、本当に家族として受け入れようとしてくれている。そんな誠意が、ひしひしと伝わってきた。


「大変な目に遭われたとか。息子のマキシミリアンから話を聞きました。でも、もう大丈夫。ここでは、誰もあなたを傷つけたりしませんから」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 亡くなったお母様のことを、思い出してしまう。お母様が生きていたら、こんな風に優しく迎えてくれただろうか。目元が熱くなって、涙が溢れそうになる。でも今、ここで泣いてしまったら、せっかくの歓迎を台無しにしてしまうから泣かないようにする。


「ありがとうございます、エレオノーラ様。そのお言葉、本当に……本当に嬉しいです」


 私は精一杯の笑顔で応えた。


「さあ、中へどうぞ。マキシミリアンは王宮での仕事がありまして、夕方まで戻りませんが、他の家族たちがあなたを待っていますよ。みんな、あなたに会えるのを楽しみにしていたのです」


 マキシミリアン様が不在なことは、事前に聞いていた。王国軍の将軍として、彼は王宮で重要な会議に出席しているという。


 彼のような立場の人は、やはり多忙なのだろう。だけど、婚約の手続きを進めるときには、わざわざ時間を作って会いに来てくれた。その誠意には、心から感謝している。

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