第2話 違和感

 アークが橋本家に来てから、およそ一か月が経過した。


 小学校から真っすぐ帰宅した悠太は、勢いよくドアを開けて靴を脱ぐのももどかしい様子でアークが待っている自室へと飛び込んでいった。


「アーク、ただいまあ――っ!」


『おかえりなさい、悠太さん。学校から帰ったら、まず手を洗いましょう。可能であれば、うがいもするのが理想的です』


 最近では、このやり取りが悠太とアークの間でのルーティーンとなっていた。


「わかった、わかった。だろ。アーク、まるでお母さんみたいだな」


 ぶつぶつと文句を云いながらも、アークの云う事には素直に従って洗面所に向かう悠太。彼の母親の恵も、アークが来てから彼が云う事をよく聞くようになったと喜んでいた。


 洗面所で手洗をした後、歯磨き用のマグカップに水を注ぎガラガラと声を上げながらうがいをする悠太。それを吐き出し顔を鏡に向けた時、彼は鏡に映った自分の顔に違和感を感じ、それを凝視した。


「あれ、


 今まで気付かなかったが、鼻の片方の穴から赤い血液の筋が一本下に向かって伸びていた。特に鼻をぶつけた記憶は無いのに、いったいどうしたのだろう。悠太は不思議そうに首を傾げてから傍に掛けてあったタオルで鼻血を拭うと、再びアークの所へと戻っていった。


「アーク、今日は何して遊ぼうか。またクイズにする?」


 アークが出すクイズは、ちょうど悠太くらいの小学生が答えるのにぴったりな謎解きクイズだった。簡単過ぎず難し過ぎない絶妙なレベルの問題を出してくれるので、悠太も答えるのが楽しかった。


『謎解きクイズですか。もちろんいいですよ。しかし、その前に悠太さん、なにか顔色が冴えないようですが、少しお疲れではないですか?』


「えっ、顔色? べつに、いつもと変わらないよ。太陽の光のせいじゃないの?」


『いつもと変わりませんか。それならいいのですが』


「やだなあ。脅かさないでよ、アーク!」


 寝不足や疲労など、些細な事が原因で人間の身体からだに現れる不調のサイン。そんな小さな変化もアークは見逃したりはしないが、悠太くらい若ければその回復も早い。大抵は一晩眠れば翌日にはすっかり回復している。悠太自身も自覚症状はなく、アークが悪ふざけを云っているのだと思っていた。



 *    *    *



 ――それから一週間後のある日――


 悠太の母親『恵』は、勤め先を早退していち早くマンションに戻ると、部屋を整頓しながら、落ち着かない様子で我が子の到着を待っていた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


『悠太君の担任の高橋ですが、実は悠太君、熱があるようで授業を受けるのがとても辛そうなんですよ。それで、今日は早退させて私の車でご自宅までお届けしようと思うのですが、お母様はご在宅中でしょうか?』


「それはありがとうございます! 大至急自宅に戻りますので、車で送っていただけると助かります」


『そうですか、わかりました。それでは無事に悠太くんをお届けいたしますので、どうかご心配なく』


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 恵がマンションに戻ってから、およそ30分後……悠太の到着を報せるインターホンの電子音が部屋中に鳴り響くと、恵は急いで玄関へと駆けつけた。


「悠太っ!」


 恵がドアを開けると、そこには項垂れたまま、辛そうに顔を歪めて立つ悠太と、神妙な表情で彼の肩に手を置いて隣に立つ担任の高橋の姿があった。


「先生、わざわざ送り届けて下さってありがとうございました! 悠太、大丈夫なの?」


「熱はそれほど高くないようですが、辛そうにしていたので大事をとって早退させました。ご自宅でゆっくり休ませてあげてください」



 恵は高橋から悠太を引き取ると、座席で自動運転EVの電源を入れる高橋に向かって、改めて丁寧に感謝の言葉を掛けた。そして、高橋の車が見えなくなるまで深く頭を下げ送り出すと、今度は悠太の方に向き直り心配そうな表情で彼の額に掌を当てた。


「悠太、大丈夫? 風邪でもひいたの? 」


「わからないけど、午後からなんか身体からだがだるくて……」


「どうしたのかしら……とりあえず、晩ごはんまで自分のベッドで寝てなさい」


「ええっ、アークと遊びたいよ」


「駄目よ、寝てなくちゃ! アークとはいつだって遊べるでしょ。今日は大人しく寝ていなさい」


「ちぇっ、わかったよ……」


 悠太をベッドに行かせた後、恵はキッチンのテーブルに置いてあった自分のスマートフォンを手に取り、この出来事を仕事中の和也に報告した。




『そうか……』


 電話の向こうで、和也の声にわずかな沈黙が混じった。


『そんな事があったのか……悠太が体調不良なんて、珍しいな』


「でしょ? だから、わたしも心配になっちゃって……ごめんなさいね、お仕事中にこんな電話掛けて」


『いや、別に構わないよ。そうだな……今日はそんなに遅くならないと思うから、この話の続きは帰ってからゆっくりしよう』


「そう。お願いね」


 恵は、悠太の為に消化の良いお粥を作り和也が帰って来てから三人で食卓に着いた。その後、再び悠太をベッドに就かせ、その甲斐もあって悠太の体調不良は翌日にはすっかりと回復していた。



*    *    *



 悠太は元々病気とは縁遠い健康な少年で、今まで大きな病気もせずにこの前のように、学校を早退するような事は初めての事であった。今回も翌日にはすっかり回復していたので、和也も恵も悠太の健康についてあまり心配はしていなかった。


 ところが翌週、そして翌々週にも体調不良で学校を早退するという事が続き、和也も恵もさすがに悠太の身に何か異常が起きたのではないかと疑うようになった。




「やっぱり、病院で診てもらった方がいいわね」


「そうだな。さすがに毎週早退っていうのは、普通じゃないだろ。手遅れにならないうちに、早く医者に診せた方がいいよ」


 和也と恵は互いに頷きあい、翌日にでも悠太を休ませて病院に連れて行く予定を立てた。


 ――翌日――



「ええ―――っ! 病院なんて、行きたくないなあ――っ」


「そんな事云って、先週も先々週も早退はやびきして帰ってきたでしょ。前にはそんな事無かったじゃないの。、お医者さんに診てもらった方が安心でしょ?」


朝から病院行きのバスに乗り、窓際の席にに並んで座った二人は、そんな話をしていた。


 今、隣で不貞腐ふてくされたように頬を膨らませている悠太は、恵の目には確かに健康そうに見えた。しかし、『念の為』と彼には云ったが、恵の胸の奥のざわめきは消えなかった。


 やがて、二人を乗せたバスが『病院前』の停留所に到着した。滅多に行く事の無い、病院の建物を物珍しそうに落ち着きなく見まわす悠太とは対照的に、恵はまるでのような心境で、開いた病院の自動ドアを通り抜けた。


(12月4日(木)AM6:12 第3話につづく)

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