Caput II : Hortorum Susurrus(庭の囁き)

Sub aurorae lumine, hortus susurrat.

Flores teneri quasi secreta confidunt.

(暁の光の下で、庭は囁く。

やわらかな花々が、ひそやかな秘密を打ち明けるかのように。)


──────────


朝の光は、薄いカーテンを透かして部屋をやわらかく染めていました。

鳥の声はまだ遠く、屋敷全体が大きな眠りを続けているかのようです。

その静けさの中で、セレスティアはまぶたをそっと持ち上げました。


視界に広がったのは、淡い光に包まれた天蓋と、かすかに揺れるレースの影。

夜と朝のあわいにあるようなその光景は、どこか夢の続きのようにも思えます。

彼女はゆっくりと息を吸い込み、胸に残る心地よさを確かめるように吐き出しました。


昨夜、星たちと交わした囁きは、まだ余韻となって心の奥に漂っています。

耳に届くわけではないけれど、確かに彼女だけが受け取れる響き。

その柔らかな残響が、朝の目覚めを静かに包み込んでいました。


セレスティアは静かに寝台から身を起こし、足を床へと下ろします。

まだ冷たさの残る石の感触が、彼女を現実へと引き戻しました。

ゆるやかな足取りで窓辺へ歩み寄ると、暁の名残を抱いた空に、まだひとつふたつ星が光を留めていました。


その淡い瞬きを見上げ、セレスティアは小さく微笑みます。

そして散り残る星々に向かって、そっと声をかけました。


「おはよう。今日もどうか、良い日でありますように」


それは祈りを込めた、朝の挨拶でした。

言葉を口にした瞬間、胸の奥に温かな灯がともるようで、彼女はひとり小さく微笑みます。


やがて窓辺を離れ、衣を整え、鏡に映る自分の姿へ視線を落としました。

まだ幼さを残しながらも、瞳には確かな意志が宿っています。

髪を撫でつけ、裾を正す仕草は、今日という一日を迎えるための小さな儀式のようでした。


心を整えたセレスティアは、静かに扉を開けて廊下へと歩み出ていきました。



廊下に出ると、そこにはカシアンと、もうひとりの姿がありました。

それは幼なじみのルキア。男爵家の令嬢でありながら気取ることなく、聡明さと温かな心を持つ彼女は、幼いころからセレスティアにとってかけがえのない友です。

淡い水色のドレスに身を包み、差し込む朝の光を受けて、やわらかな笑みを浮かべていました。


セレスティアに気づくと、二人はそろって微笑みます。

カシアンが一歩近づいて、穏やかに告げました。


「父さんに呼ばれてね、これから王都へ行ってくる。昼までには戻るよ」


「わかったわ。気をつけて」


「いってらっしゃい、カシアン」


セレスティアとルキアの言葉に、カシアンは軽く頷き、目元に笑みを宿します。


「ありがとう、行ってくる」


その足取りはどこか軽く、口元には抑えきれない嬉しさが滲んでいました。

その様子に、セレスティアは思わず小さく首を傾げます。


「兄さま……何か良いことがあるのかしら」


ルキアは視線だけで廊下の先を追い、静かに言葉を添えました。


「ええ。…大切な親友が帰ってくるのだもの。あの顔になるのも無理はないわ」


「親友……フェリクス様以外にもいるってこと?」


「ええ。カシアンにとっては特別な人だそうよ。私は会ったことがないけれど、これまでに何度も思い出話を聞かされて。だから、不思議と他人のようには思えないの」


セレスティアは微笑み、そっと言いました。


「特別な人……兄さまにとって、かけがえのない方なのね」


口にした瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がります。

その想いを胸に抱きながら、二人は歩みを進め、やがて庭へと足を踏み出しました。



朝露を含んだ風が、花々を揺らしながらすり抜けていきます。

噴水の水面が陽に照らされ、きらきらと小さな虹を描いていました。


セレスティアは小径に咲く白い花へ指先を添え、囁くように言います。


「……この花を見ていたら、星から聞いた言葉を思い出したの。“まもなく訪れる再会が、喜びをもたらす”って」


ルキアが目を細め、興味深そうに顔を向けました。


「再会……星はそんなことまで告げてくれるのね」


「ええ。星たちは人の未来を映すもの。けれど、その意味はすぐにはわからないわ」


ルキアは小さく笑み、友の横顔をのぞき込むように言いました。


「だからこそ、少し胸が躍るのかもしれないわね」


二人は顔を見合わせて微笑み合い、庭の一角に設えられた小さな卓へ腰を下ろします。


ほどなくして茶器が運ばれ、香ばしいビスケットの皿が置かれました。

銀盆の上で小ぶりの菓子が並び、ふわりと甘い香りが立ちのぼります。


「まあ……美味しそう!」


セレスティアが目を輝かせると、ルキアが嬉しそうに言いました。


「街で見つけたの。さっき渡しておいたのよ」


セレスティアは頷き、ビスケットをひとつ手に取ります。

サク、と軽やかな音。やさしい甘みが口いっぱいに広がりました。


「……本当に、美味しいわ。私も今度、買いに行こうかしら」


「えぇ。ぜひ」


取りとめのない話は、自然に色を変えてゆきます。

王都にできた新しい菓子店の噂、仕立て屋に並ぶ今季の布地、友人が選んだ新しいリボンの色――

笑い声は庭の緑に溶け、時の流れはいつしか穏やかな弧を描きました。


杯を置いたセレスティアは、ふと花壇の白を見つめます。

昨夜の響きが、また胸の奥でほどけました。



庭を撫でる風が一度だけ向きを変えた、そのときです。

遠くから馬の蹄の音が近づいてきました。

石畳を打つ蹄の音が次第に近づき、やがて門の前で止みました。

顔を上げたセレスティアとルキアの視線の先に――カシアンと、その隣に並ぶ青年の姿がありました。


漆黒の髪に琥珀の瞳、凛とした佇まいを備えた青年。

その名はフェリクス・ゴルドウィン。

カシアンの親友であり、誠実な人柄と落ち着いた物腰で人と接する姿が印象に残る人物でした。

セレスティア自身も、兄の剣術を見学した折に顔を合わせたことがあり、その真摯な眼差しをよく覚えていたのです。


彼女は軽く裾を摘み、にこやかに挨拶しました。

「お帰りなさい、兄さま。そして……ようこそお越しくださいました、フェリクス様」


フェリクスは姿勢を正し、丁寧に一礼します。

「セレスティア様にお目にかかれて、嬉しく思います。お変わりなくて何よりです」


その礼儀正しいやり取りに、カシアンがくすりと笑いました。

「お前は相変わらず律儀だな、フェリクス」


フェリクスも思わず笑みを返し、肩をすくめます。

「はは、昔からだろう? カシアンこそ、もう少し堅苦しくしてみたらどうだ」


二人の軽やかなやり取りを見て、ルキアは自然と微笑みをこぼしました。

「本当に仲が良いのね。カシアンからお話は聞いていましたけれど……こうして実際に拝見すると、何だか心が和んでしまいますわ」


フェリクスはその言葉に穏やかな笑みを返し、静かに応じました。

「そう仰っていただけると……嬉しいやら、少し気恥ずかしいやら。昔からの付き合いですので、自然とこうなってしまうのです」


ルキアは優しく頷き、二人を気遣うように声を添えます。

「きっとお話も尽きないでしょうし……どうぞごゆっくりなさってくださいね」


その言葉に、カシアンは軽く頷きました。

隣に立つフェリクスと一度視線を交わし合い、それから妹たちへ向き直って穏やかに告げます。


「少し部屋で続きを話してくる。……夕食は一緒に取ろう。またそこで」


フェリクスも静かに会釈を加えました。

「では、後ほど改めて」


二人は歩を進め、 屋敷の奥へと歩を進めていきました。


残されたセレスティアは、隣に立つルキアと視線を交わしながら、胸にそっと手を当てました。

星々の囁きが、静かに心の奥へと染みわたっていきます。


――まもなく訪れる再会が、喜びをもたらす。


それが兄にとっての大切な親友のことなのか、それとも……。

その答えを知るのは、まだ少し先のことでした。

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