第26話
キッチンでは、母と夏海が並んで料理をしていた。
湯気の立つ鍋、切り揃えられた野菜、そして静かに流れる時間。
その空気には、どこか懐かしい安心感が漂っていた。
「……今度は、大丈夫そうね」
母が、ふと手を止めて言った。
その声には、心配と安堵が混ざっていた。
夏海は、少しだけ手を止めて、笑顔で答えた。
「倉田さんは……優しくて、とても良い人だよ。
私には、勿体ないくらい……」
その言葉に、母はクスッと笑った。
「そういうこと言えるようになったのね」
夏海は、少し照れながらも、鍋の蓋をそっと閉じた。
一方、リビングでは——
沈黙が続くかと思われた父と倉田の間に、意外にも会話の花が咲いていた。
「倉田さんは……釣り、するのか?」
「ええ、たまに。休みの日にフラッと…。」
「そうか……今度、一緒に行かないか?」
「はい、是非!」
「良い穴場があるんですよ!」
「おお…それは楽しみだな。」
父の声は、どこか楽しげだった。
倉田も、少し緊張を解いたように笑っていた。
台所の灯りと、リビングの笑い声。
それらが、ひとつの家の中で静かに混ざり合っていた。
「お父さんもね……昔はあぁだったのよ? 不器用でね……」
母は、煮物の味を見ながら思い出し笑いをしていた。
その笑顔は、長い時間を共に過ごしてきた人への、優しい肯定だった。
夏海は、包丁を置いて、ふと母に声をかけた。
「……お母さん」
「なに?」
「……良いのかな、私……」
「え?」
「……幸せになっても、良いのかな?」
その言葉は、涙ぐんだ声で紡がれた。
母は、手を止めて夏海の顔を見た。
夏海の胸の奥には、誰にも言えなかった思いが沈んでいた。
——悠真が舞を刺殺し、服役していること。
——予定通りに帰宅していたら…。
——もしあの時、舞と再会しなかったら。
——悠真と幸せな家庭を築いていたかもしれない。
それは、誰にも言えなかった。
言ってしまえば、今の幸せが壊れてしまう気がして。
母は、何も言わずに、そっと夏海の手を握った。
その手は、温かかった。
「……夏海。幸せになることに、許可なんていらないのよ?」
「……でも……」
「誰かの不幸を背負って生きることと、
誰かの優しさに救われて生きることは、違うの。
あなたが倉田さんと笑ってる姿を見て、私は安心したの。
それだけで、十分よ」
夏海は、涙をこぼしながら、母の手を握り返した。
「……ありがとう」
その言葉は、心の奥から出てきたものだった。
「夏海……倉田さんと幸せになりなさい。
お母さんは反対しませんよ?」
母の言葉は、静かで、けれど確かな温度を持っていた。
リビングをちらりと見ながら、微笑む。
「きっと、お父さんも反対しないから」
夏海は、涙を拭いながら、何度も頷いた。
「……うん……うん……」
母は、そっとエプロンの裾を整えて言った。
「さ、涙拭いて……料理運んで食べましょ」
その声に、夏海は笑顔を取り戻し、湯気の立つ器を手に取った。
リビングでは、父と倉田の会話が続いていた。
「あらあら、楽しそうね!」
母が声をかけると、父が笑いながら答えた。
「ああ、倉田くんの話は実に面白い」
倉田は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、そんな……」
その仕草に、夏海はそっと笑った。
その笑顔は、もう“遠慮”ではなく、“安心”に満ちていた。
「……旨い……」
「これ、本当に美味しいです」
倉田は、湯気の立つ煮物を口に運びながら、素直な感想を漏らした。
その表情は、どこか懐かしさを感じているようだった。
母が、ふと笑いながら言った。
「それ、作ったの夏海ですよ?」
倉田は驚いたように、チラリと夏海の顔を見た。
夏海は、顔を赤らめて、そっと視線を落とした。
(……お母さんに言われた言葉が、まだ胸に残ってるから……)
その照れは、どこか愛おしかった。
不意に、母が倉田に尋ねた。
「ご両親は、お元気?」
倉田の箸が、ふと止まった。
「……実は、僕、小さい頃に両親を亡くして……祖父母に育ててもらってて」
「……あら、それは……」
「気にしないでください。祖父母には、たくさんの愛をもらいました」
倉田は、笑顔でそう言った。
けれど、その笑顔の奥には、静かな孤独が滲んでいた。
父が、ゆっくりと口を開いた。
「……苦労してきたんだな」
その言葉に、倉田の目に涙が浮かんだ。
それは、誰かに初めて“認められた”ような感覚だった。
父は、続けて言った。
「夏海を、よろしく頼む」
そして、深々と頭を下げた。
倉田も、すぐに頭を下げて言った。
「……お父さん、お母さん……娘さんを……夏海さんを、僕にください!
必ず、幸せにします!!」
その声は、震えていた。
けれど、真っ直ぐだった。
父と母は、顔を見合わせ——
そして、静かに微笑んだ。
「……倉田さん、頭を上げてください」
その言葉は、祝福のように、食卓に静かに響いた。
夏海は、そっと倉田の横顔を見つめながら、胸の奥で思った。
(……この人となら、きっと)
この食卓から始まる未来が、静かに、確かに動き出していた。
第27話につづく…。
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