第21話
夜の喫茶店は、いつになく賑わっていた。
カップの音、笑い声、ドアベルの響き——
それらが混ざり合って、心地よいざわめきを生んでいた。
マスターは、カウンター越しに澪へ声をかけた。
「澪、そろそろ仕事してくれないか?」
澪は、カップを置いて立ち上がる。
「はーい、それじゃ夏海ちゃん……ごゆっくり」
「はい」
夏海は、澪の背中を見送りながら、ふと疑問が浮かんだ。
「……マスターさん、澪って呼んでませんでした?」
倉田は、コーヒーを啜りながら答えた。
「あぁ…マスターは澪の親父さんだからな」
「えっ……そうなんですか?」
夏海は、目を丸くして倉田を見つめた。
倉田は、少しだけ首をかしげて言った。
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてないです」
「そうだっけ……?」
ふたりは、顔を見合わせて笑った。
その笑いは、どこかくすぐったくて、あたたかかった。
夏海は、カウンターの奥で働く澪とマスターの姿を見つめながら、心の中で思った。
(……いいな。親子で、こんな素敵な喫茶店ができるなんて)
カップを磨くマスターの手。
注文を受ける澪の笑顔。
その空間には、言葉にできない“絆”が漂っていた。
夏海は、そっとコーヒーに口をつけた。
その香りは、どこか懐かしくて——
胸の奥に、静かに沁みていった。
倉田は時計をチラリと見た。
「20時ちょい過ぎか…。」
店内の空気は落ち着いていて、澪とマスターが片付けを始めていた。
倉田は夏海に向き直り、静かに問いかける。
「このあと…もう少し良いかな?」
夏海は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「はい…大丈夫ですけど。」
倉田はニコリと笑い、席を立つ。
「澪、マスター…ごちそうさま。」
「ごちそうさまでした。」と夏海も続ける。
「ありがとうございました。」とマスターが微笑みながら応じた。
倉田は店の外へ出ると、夏海を助手席へとエスコートする。
ドアを開けて彼女を乗せると、そそくさと運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
車は静かに走り出す。
「…あの、どこに…?」と夏海が不安げに尋ねる。
倉田はニヤリと笑いながら、前を見たまま答える。
「着いてからのお楽しみ!」
「はあ…。」
車は住宅街を抜け、やがて街灯もまばらな山道へと入っていく。
木々が窓の外を流れ、周囲は次第に静寂に包まれていく。
夏海は助手席で身をすくめながら、心の中でつぶやいた。
“どこに…行くのかな…。”
途中にラブホテルの案内看板を夏海は見つけた…。
“もしかして…倉田さん…?”
夏海は急にドキドキし始める。
だか、夏海の想像とは裏腹に車はホテルの横を通り過ぎ、朝日山記念公園の駐車場に入った。
「着いたよ…。」
「ここは?」
周囲は木々に囲まれ、街の喧騒から離れた静かな空間。夜の空気は少しひんやりしていて、虫の声が遠くから聞こえてくる。
倉田はエンジンを切ると、運転席から降りて助手席のドアを開けた。
「少し歩こうか。」
「はい…。」
夏海は頷きながら車を降りた。先ほど見かけたラブホテルの看板が頭から離れず、胸の鼓動がまだ少し早い。
“なんだ…違ったんだ…”
倉田の横を歩く。
公園の小道は街灯がぽつぽつと灯っていて、足元を優しく照らしていた。二人は並んで歩きながら、しばらく無言のまま進む。
やがて、視界が開ける場所に出た。
そこには展望台があり、街の夜景が一望できた。
「ここ、昔から好きなんだ。」と倉田が言う。
夏海は思わず声を漏らす。
「わあ…きれい…。」
眼下には、宝石をちりばめたような街の灯りが広がっていた。風がそっと吹き抜け、木々の葉がささやく。
倉田は手すりにもたれながら、静かに言った。
「こういう景色を見ると、いろんなことがちっぽけに思えてくるんだよね。」
夏海は隣に立ち、倉田の横顔を見つめる。
“倉田さんって…こんな一面もあるんだ…”
倉田がそっと夏海の肩を抱いた…。
夏海は目を閉じ2人はキスを交わした。
その瞬間、夏海の中で何かが少しだけ変わった気がした。
二人は展望台でしばらく夜景を眺めながら、静かに語り合った。
倉田は仕事のこと、昔のこと、そして少しだけ未来のことを話した。
夏海は聞きながら、時折うなずき、時折笑った。
夜の空気は澄んでいて、街の灯りがまるで星のように瞬いていた。
やがて時間は流れ、倉田は「そろそろ帰ろうか」と言った。
夏海は名残惜しそうに夜景を振り返りながら、車に乗り込んだ。
帰り道、車内は穏やかな沈黙に包まれていた。
夏海の心には、少しだけ温かいものが灯っていた。
そして自宅前に到着し、倉田が静かに言った。
「今日はありがとう。」
「こちらこそ…楽しかったです。」
夏海は車を降り、玄関の扉を開ける。
「ただいま…。」
リビングから母の声が返ってくる。
「おかえりなさい、夏海。」
キッチンでは母が夕食の片付けをしていた。
その背中に向かって、夏海は微笑みながら言う。
「お風呂…入っちゃいなさい。」
「ありがとう、お母さん。」
“倉田さんって…不思議な人だな。”
そう思いながら、ユーティリティのドアを閉めた。
ユーティリティの鏡に映る自分の顔。
濡れた髪をタオルで包みながら、夏海はふと目を伏せた。
(……倉田さんと、キス……しちゃった)
その瞬間の記憶が、ふいに蘇る。
唇に残る感触。
倉田の優しい目。
そして——自分の鼓動。
(……恥ずかしい)
顔がじんわりと赤くなる。
鏡の中の自分も、どこか照れているように見えた。
入浴を終え、リビングへ向かうと——
父がソファでうたた寝していた。
「お父さん……お風呂、空いたよ」
「お、おう……」
父は寝ぼけた声で返事をしながら、ゆっくりと立ち上がった。
テーブルの上では、スマホがピカピカと光っていた。
通知を確認すると——倉田からのLINEだった。
“今日はありがとう、おやすみ!”
(……短い)
けれど、その一言に、倉田らしさが滲んでいた。
夏海は、スマホを手に取り、少しだけ考えてから返信を打った。
“こちらこそありがとうございました”
“これからは…倉田さんの彼女です”
“宜しくお願いします、おやすみなさい”
送信——
その直後、すぐに返事が来た。
(はやっ)
“夏海の彼氏として恥ずかしくないように頑張るね!”
その言葉に、夏海は思わず笑みをこぼした。
(……頑張る、か。頑張らなくてもいいのに)
ただ、そばにいてくれるだけで——
それだけで、十分なのに。
スマホの画面を伏せて、夏海はそっと目を閉じた。
その様子を母は優しく見つめていた…。
夏海…今度こそ幸せになりなさいね。
第22話に続く…。
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