第2話 魔王様の看病は、癒しと恐怖のミルフィーユ

 ふかふかのベッド。シルクのように滑らかなシーツ。微かに香る、嗅いだことのない甘い花の匂い。

 ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な天蓋と、きらびやかなシャンデリアだった。


​「……どこだ、ここ?」


​ 体を起こそうとして、全身が軋むような痛みに顔をしかめる。


 そうだ、俺は聖女から逃げて、魔王領にたどり着いて、それから……。


​「目が覚めたか、人間」


​ 凛とした、しかしどこか可愛らしい声にハッと顔を上げる。

 ベッドサイドの椅子に魔王様――ルシルフィアがちょこんと腰掛けていた。足をぷらぷらさせながら、必死に腕を組んで尊大な態度をとっている。めちゃくちゃ可愛い。


​「ま、魔王様……。俺は……」


「安心しろ。貴様は我が城で保護した。丸一日、眠り続けていたぞ」


「一日も……。ありがとうございます、助かりました」


​ 深々と頭を下げると、彼女は「ふんっ」とそっぽを向いてしまった。


​「か、勘違いするな。貴様を助けたのは、聖女に追われていると聞いたからだ。あの女は気に食わん。奴の思い通りになるのが癪なだけだ」


​ 耳まで真っ赤になっている。分かりやすいツンデレだ。

 聖女のヤンデレに比べたら、こんなのただのご褒美でしかない。心が洗われるようだ。


​「それにしても、腹が減っているだろう。食事を用意させた」


​ ルシルフィアがパチンと指を鳴らすと、部屋の扉が開き、ゴブリンのメイドさんがワゴンを押して入ってきた。


 おお、至れり尽くせりだ。さすが魔王様。

 どんなご馳走が出てくるんだろう。


​「さあ、食え。魔界でも指折りの滋養強壮に効くスープだ」


​ 自信満々に差し出されたお椀の中身を見て、俺は固まった。

 お椀の中では、紫色の液体がどろりと渦を巻き、得体の知れない触手のようなものや、目玉のような球体がいくつも浮かんでいる。

 時折、それがピクッと痙攣しているように見えるのは、気のせいだろうか。


​「……あの、これは?」


「『這い寄る混沌ケイオス・クローラーの目玉スープ』だ。これを飲めば、どんな傷も忽ち癒えると言われている」


「名前からして食欲が湧かないんですが!?」


​ 思わず全力でツッコんでしまった。

 這い寄る混沌て。絶対ヤバいやつじゃないか。


​「な、なんだその反応は! 我が優しさを無にする気か!」


「いや、優しさは大変ありがたいんですけど! 人間の胃腸にはハードルが高すぎるというか……!」


​ ぷんすかと頬を膨らませる魔王様。可愛いけど、命の危機だ。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、彼女はハッとした顔で何かを思い出したようだった。


​「そうか……人間は虚弱だと聞く。ならば、こっちだ」


​ 次に彼女が取り出したのは、真っ黒な丸薬だった。拳くらいの大きさがある。


​「これは『マンティコアの胆石』だ。少し苦いが、これを飲めば一週間は飲まず食わずで走り続けられるぞ」


「それ、栄養補給っていうか、ただのドーピングじゃないですか?」


​ もはや薬ですらない。というか胆石て。


 俺が遠い目をしていると、ルシルフィアはシュンと肩を落としてしまった。


​「す、すまない……。我は、人間のことなどよく知らなくて……。どうすれば、貴様は元気になるのだ……?」


​ さっきまでの威厳はどこへやら、潤んだ瞳で不安そうにこちらを見つめてくる。


.……ダメだ、可愛すぎる。


 聖女の歪んだ善意と違って、彼女の善意は純粋で、不器用で、まっすぐだ。それだけで逃亡生活でささくれ立った心がじんわりと温かくなるのを感じた。


​「あの、もしよければ、何か温かいお粥とか、果物とか……そういう普通のものをいただけると……」


「おかゆ? くだもの? わかった、すぐに用意させる!」


​ 俺の言葉にルシルフィアはぱあっと顔を輝かせると、バタバタと部屋を飛び出していった。

 一人残された部屋で、俺はふうっと息をつく。


​(面白い人だな、魔王様)


​ 恐ろしい魔王を想像していたのが馬鹿みたいだ。彼女はただ、少し世間知らずで、純情なだけの優しい女の子じゃないか。


​ しばらくして、魔王様は息を切らしながら戻ってきた。その手には、湯気の立つお粥と、色とりどりの果物が乗ったお盆がある。


​「は、はぁ……持ってきたぞ、人間!」


「ありがとうございます。わざわざご自分で?」


「べ、別に! 貴様のためではない! 毒見だ、毒見!」


​ そう言いながら、彼女はお粥の器を俺に差し出してくれた。その手が微かに震えている。


 俺は「いただきます」と手を合わせ、スプーンでお粥を口に運んだ。

 優しい塩味と、穀物の甘みが体に染み渡る。何日もまともな食事をしていなかったせいか、涙が出そうになるほど美味しく感じた。


​「……美味しいです。本当に、ありがとうございます」


​ 素直な感想を告げると、ルシルフィアは照れくさそうに顔を背け、小さな声で「そ、そうか……なら、いい」と呟いた。

 その仕草の一つ一つが、荒んだ俺の心を癒していく。


​ そうだ、俺はこういうのを求めていたんだ。

 相手を支配しようとする息苦しい愛情じゃない。ただ純粋に相手を思いやる、温かい優しさ。

 聖女エリクシアから逃げてきたのは、間違いじゃなかった。


​「……あの女は、そんなに恐ろしいのか?」


​ 食事を終えた俺に、ルシルフィアがぽつりと尋ねた。

 その言葉に、俺の脳裏にあの美しい顔が浮かぶ。慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、俺の全てを奪おうとした彼女の姿が。


​『ユキナ、愛しています。だから、あなたの全てを私にくださいね?』


​「……っ!」


​ 全身が総毛立つ。無意識に体が震えだした。


 やばい、思い出しただけでこのザマだ。

 トラウマってレベルじゃない。


​「だ、大丈夫か、人間!?」


​ 俺の様子に、ルシルフィアが慌てて駆け寄ってくる。そして、何を思ったのか、彼女はためらいがちに、そっと俺の頭を撫でた。


​「よ、よしよし……。恐ろしい夢は、もう見なくていい。ここは魔王領だ。あの聖女の好きにはさせん」


​ 小さな手が不器用に俺の髪を撫でる。

 その温かさに、俺は張り詰めていた最後の何かが、ふっと解けていくのを感じた。


​――ああ、本当に、この魔王様に癒されてる。


​ この温かい場所を守るためなら、何か俺にできることはないだろうか。

 純情な魔王様の優しさに包まれながら、俺はそんなことを考えていた。

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