第18話 蝉のやむとき
津藩邸の門は半ば開かれ、木戸の隙を夏の風が抜けていった。
昼の光が乾き、土塀の白が目に沁みる。
その影の奥に、村瀬が立っていた。
浅葱の羽織の裾が、風を受けて微かに揺れている。
屋敷の奥から、河合が現れた。
若い面立ち。結い上げた黒髪の間を、一筋の汗がこめかみを伝う。
今朝、澄弥の道案内を命じられ、先に門へ出たところだった。
足取りは速いが、どこか硬い。
襟を正したまま、真昼の光の中へ踏み出す。
門の影に立つ人影に気づき、河合の足が止まる。
村瀬の視線がゆっくりと彼をとらえた。
音が遠のき、葉擦れだけが残る。
河合は反対側に立ち、距離を取った。
互いに視線を交わさぬまま、蝉の声が遠くで重なっていく。
唇を噛み、息を吸って止める。
――誰かの命令を果たすように、声を放つ。
「……すまなかった!」
言葉のあと、肩を落とす。
村瀬が片目を薄く開ける。
唇がわずかに動き、低い声が落ちる。
「……滝川に。言え」
風が庭木を撫で、蝉の声がわずかに遠のいた。
河合は顔を上げて、乾いた声を返す。
「……滝川どのには、もう謝った」
村瀬は答えず、ひとつ息を吐く。
その吐息はため息ともつかず、音もなく溶けた。
空を見上げ、短く言う。
「……結構だ」
その一言が、かえって河合の胸を刺した。
「……何が、結構だ」
眉がわずかに動く。
「上から言いやがって……お前に指図される覚えはねぇ」
声が熱を帯びる。
村瀬は黙っていた。
浅葱の裾が風に揺れ、目だけが細く光る。
その静けさが、河合の中の何かを焦がした。
「お前なんかに……!」
言葉の尾が震え、足が前に出る。
二歩、三歩と続き、距離が詰まる。
河合の熱が、空気をわずかに歪ませた。
そのまま河合は村瀬の肩を押し払う。
羽織が揺れ、砂利が小さく鳴った。
村瀬はまばたき一つ。
その目に、戸惑いとも無関心ともつかぬ影が走る。
「お前なんかに、何が分かる!」
もう一度、胸へ手を押し込もうとした――その瞬間。
村瀬がぬめるように動いた。
無言のまま河合の腕を捻り、木戸へ押しつける。
門が低く鳴り、背に陽の熱が移った。
「時雨どの! 河合どの! おやめくだされ!」
通りがかった藩士が声を上げ、二人の間に割って入る。
下働きの若者も駆け寄り、慌てて袖を掴んだ。
村瀬の動きがふっと止まる。
力が抜けると同時に、低い声が落ちた。
「……もう、結構だ」
その声音に怒りはなく、ただ静かな諦めだけがあった。
河合の胸元が乱れ、肩が上下する。
息の音だけが、門の影に残った。
河合は喉を鳴らし、地に唾を落とす。
「滝川とお前が会ってなけりゃ……こんなことには……!」
その言葉が、村瀬の耳を打つ。
時間が軋み、何かが内側で崩れた。
その場にいた者の意識の外を、何かが滑った。
気づいたときには、村瀬の腕が伸びていた。
白い指が河合の喉をとらえ、肉の奥で鈍い音が走り始めていた。
蝉の声が止み、風が途絶える。
村瀬の目の奥には、光がなかった。
人の皮をまとった“何か”が、静かに覗く。
藩士が村瀬の腕を掴んだ。
「村瀬どの、しっ死んでしまうぞ、やめられい!」
袖が引かれ、布がきしむ。
だが、びくともしない。
村瀬の指が喉に沈み、白い皮膚の下で筋が浮く。
河合の目が見開かれ、呼吸が音を失う。
首骨の奥で、何かが軋んだ。
――折れる。
その瞬間。
「――ぃさん!!」
鋭い声が、夏の空気を張りつめさせた。
光が跳ね返るように、風と音が一斉に戻る。
砂利の上で、紙の束が音を立てて落ちた。
風にめくられた頁が、光を反射してちらつく。
声の主――澄弥の顔には、怯えが浮かんでいた。
目の奥に、過ぎた夜の光が滲む。
理性より早く、恐怖が声を押し出していた。
村瀬の手が離れる。
河合の体が崩れ、膝が砂利に沈む。
乾いた音。
呼吸が戻り、喉の奥で咳が弾けた。
「ガハッ……ゴホッ……」
喉を押さえ、河合はうずくまる。
(今……“兄さん”って、言ってたな——)
握り拳のように、胸の布を手繰り寄せる。
助け起こそうとする下働きの手を払い、
河合は立ち上がりながら、澄弥と村瀬を視界にとらえた。
その疑念が声にならず、喉の奥で揺れる。
誰も気づかない。
門の内の空気だけが、静かに揺れていた。
蝉の声が戻り、遠くで祇園囃子の笛が細く鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます