第17話 帳簿の外


 朝の光はまだ浅く、留守居屋敷の一室だけに夜の湿りが残っていた。

 帳簿の山が卓を囲み、墨と紙の匂いが息に絡む。

 隣で室田が紙を繰るたび、乾いた音が薄く重なった。


 「――今朝も、門の前におられますな。村瀬どの」

 筆は止めず、室田が目だけこちらへ寄越す。

 澄弥は小さくうなずき、口元だけで笑った。

 「ええ。今日は挨拶ができました」

 「ほう……」

 室田は居心地の悪そうな笑いを漏らす。

 「……そうですか。なら、よろしゅうございました」

 室田は袖で額をぬぐい、すぐ帳へ視線を落とす。

 「では、始めましょうか。滝川どの」

 澄弥は帳面に手を触れ、息を一つ整えた。

 「お願いします」

 室田は障子の方へ身を返し、声を張った。

 「――おうい、最初の者!」


 襖の向こうで衣擦れが応えた。

 藩邸住まいも、京に逗留の者も、数字の裏に必ず名を持つ。

 室田が帳の順に名を呼び、澄弥が問う。


 「この“出府仕度銀”、どちらへ」

 「……三条の仕立屋。紺の羽織を」

 「受け取りの名は」

 「店の者、名は……」

 言い淀み。筆がひと刃だけ止まり、また走る。

 「確かめます。場所がお分かりなら、のちほどご案内を」


 同じ問いを重ね、花街、料理屋、米屋、帯の店へと線を引いていく。

 名と額、日と時――散った点がつながり、道筋が薄く立ち上がる。

 整えられた数字の列に、人の体温がにじみ始めた。


 室田が苦笑をこぼす。

 「こうして整って見えるのは、わしが帳を仕上げたゆえでして」

 「存じています」

 「ですが、どこで金が躍ったかは、帳に映りません」

 「だから聞いています」

 筆先が紙をすべる。

 「金が動けば人が見える。人が動けば数が見える」


 室田は肩をすくめ、筆を止めた。

 紙に指を置いたまま、薄く苦笑を浮かべる。

 澄弥が小さくうなずき、目で促す。


 「……では――河合どの。いきましょうか」

 襖が静かに開く。

 先に白髪の古参が入り、深く一礼をした。

 その動きに合わせて、河合が一歩遅れて続く。

 襟元だけをきっちりと閉じ、視線を落としたまま足を止めた。

 室田は筆を置き、わずかに姿勢を正す。


 澄弥が室田へ目を向けた。

 「……お呼びを?」

 室田は軽く頷く。

 「ええ、さきほど。少し話を通しておいたので」

 澄弥は短く息を整え、筆を取り直した。

 「河合どの。祇園の“振る舞い銀”――この出入りを、もう一度」


 「……なぜ、俺が――」

 背で乾いた音。

 「ぬかすな」

 名を持たぬ古参が袖で肩を軽くはたく。

 「あの夜の件、まず詫びよ」

 「……悪かったな」

 河合の目は畳に落ちる。

 澄弥は筆を机に返し、口角だけで笑った。

 「軽くお預かりします。重く返すと、重くなりすぎますから」

 「は?」

 「謝りは、薄い方が後味がよいのです。……さ、続きを」

 呼吸が一拍乱れ、すぐ整う。

 「榛名さまと……その、村瀬殿のことだが」

 言いかけた肩に、ふたたび古参の拳。

 「言葉を選べ。若い舌は、命より軽い」

 沈黙。河合は舌を噛み、飲み込んだ。


 古参は澄弥に膝を寄せる。

 「すまぬな。――こやつの代わりに申しておこう。榛名と村瀬の関わりは、決して深いものではない」

老藩士は、手を膝に置いたまま続けた。

 「津を巻く流れがある。尊皇攘夷を唱える者、幕を支えねばと息巻く者。

 色は四つ五つに割れて見えても、根は二つで足る」

声は低く、しかしよく通った。

 「榛名と村瀬は、“家”の縁をたどれば同じ水脈にある。だが気は合わぬ。

 表の繋がりは薄い――そう見ておけ」


 「….承りました」

 古参はそれ以上は語らず、澄弥の顔をじっと見つめていた。


 澄弥は筆巻を畳み、卓の端へ寄せる。

 「あの非礼は、水で薄めました。代わりに、ひとつ濃く」


 河合が眉を寄せる。

 澄弥が顔を上げた。

 「――調べに出ます。帳簿に記された先、花街、料理屋、仕立屋、個人宅。

  地理は疎いので、案内が要ります」

 間。

 薄い笑みを添える。

 「もちろん、あなたが仰っていた“振る舞い銀”の流れ先にも――ね」


 河合の口元がかすかに引きつる。

 その変化を見て、澄弥は静かに言い足した。

 「あなたに“案内”を願います」

 「俺が?」

 「ええ。あなたの足が速いのは存じています」

 「……条件は」

 「途中で意見を言うこと。賛でも否でも。黙ると、数字が濁る」

 河合は短く鼻を鳴らし、古参がうなずく。

 「行け。若い足は、使ってこそ足だ」


 昼前、面談は終わった。

 紙束は“山の形”を変え、黒い谷筋だけが滑らかにつながる。


 澄弥は筆を拭き、袂に帳面を一冊忍ばせた。

 室田が伸びをして、「では昼の刻に」と頭を下げる。

 「……私は書き付けを整えてから向かいます」

 「ええ、河合どのには伝えておきます」

 曖昧な笑みを残し、室田が障子の外へ消えた。


 少し置いて、別室で装いを直した河合が、帯を締め直しながら廊下を抜ける。

 襟元に熱の名残を残したまま、早足で玄関へ――


 ――その先、門の内。


 村瀬が立っていた。

 昼の光が白く乾き、背に落ちた影だけがゆるく揺れていた。

 河合が近づくにつれ、祇園囃子の笛が細く響き、

 空の奥で蝉の声が、熱を増すように重なっていく。

 村瀬の顔がゆっくりと河合へ向いた瞬間、

 まるで町全体が息を呑んだように――笛も、蝉も、音を止めた。

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