第5話 名を継ぐ家

 志乃しのは湯呑に残った麦湯へ静かに手を添えた。

 澄弥すみやの視線が揺れるのを、黙って見守る。

 何も言えず、ただ一呼吸置いてから、その湯呑に冷えた麦湯を注ぎ足した。


 その時、湯殿ゆどのの戸が開き、湯気をまとった時雨が姿を見せた。

 志乃は自然に立ち上がり、さりげなく手拭いを受け取る。

 「湯加減、いかがでしたやろ」

 「……悪くない」

 短い返答にうなずくと、志乃は袖口を直しながら、控えめに言葉を添えた。

 「滝川様の明日の藩邸での顔出し――今のうちに、わたしが行って手配してまいります。

 早うても遅うても、あの方はよう言いますさかいな」


 時雨は短くうなずくだけだった。

 その横顔を確かめるように見てから、志乃は澄弥へ視線を向ける。

 「それで、よろしゅうございますね? 滝川様」


 澄弥は、わずかに遅れてうなずいた。

 返事を待っていた志乃の表情が、ふっと和らぐ。

 

 志乃は草履を揃えながら、振り返って澄弥にやわらかな笑みを向けた。

 「あ、そうそう――夕餉の支度はもう整えてあります。

 腕によりをかけて拵えましたさかい、どうぞゆっくり召しあがってくださいな。

 ……もっとも、あの方はよう食べはりませんけど」


 志乃は草履をそろえて履くと、戸口の方へ向かいながら、

 くすりと笑みを添えた。

 「せやけど、滝川様が一緒やったら、箸ぐらいは動かさはるかもしれません。

 うちの代わりに、ちょっと声をかけたってくださいな」


 引き戸が開き、夕映えを帯びた風がふわりと流れ込む。

日脚はまだ高いが、光の角度がゆるみはじめていた。

志乃の声がその明るさに溶けて残る。

 「ほな、いってまいります」


 志乃が外へ出た直後、その言葉を追うように間口の方から低い声が届いた。

 「村瀬どの――お引きものをお持ちしました」


 くぐもった職人の声。

 時雨が引き戸の方へ歩み寄り、短く応じる。

 「ここで受け取る」


 戸越しに職人の返事が続く。

 「へぇ。薄紅と藍を淡う合わせてあります。

 派手ではおへんけど、品のええ色味に織り上がりましたわ。

 ほな、次もよろしゅう頼んます」


 「……ああ」

 時雨の返答は低く、淡々としていた。

 草履の音が遠ざかり、再び家の中に静けさが戻る。


 澄弥は座敷の奥から、そのやりとりを聞いていた。

「村瀬どの」という呼び名が、あまりにも自然に響く。

まるで、時雨がこの町で“生きている誰か”として根づいているようだった。

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