第4話 香と名のあいだ
門をくぐると、涼やかな空気が足元を通り抜けた。
間口は狭くとも、奥へと深く伸びる造り――京町家特有の構えである。
外から見れば質素なのに、一歩踏み込めば格子戸の影が幾重にも奥へと続き、細い通りの静けさを吸い込んでいた。
ふと見上げると、通りに面した二階に
高い位置の小窓から淡い光が落ち、天井近くの空間をやわらかく照らしていた。外からは中が窺えないのに、内には風と光がすっと通う――工夫の積み重ねが、この町の呼吸をつくっているのだと
廊下を進むごとに、目に入るものは整っている。
土間に置かれた桶の水は澄み、格子窓からの光が斜めに差し込み、木目の床に淡く映えていた。
耳を澄ますと、奥の坪庭で水滴が石に落ちる音がする。
鼻先をかすめたのは、木を炙ったような甘い香り――滝川の屋敷で長年焚かれてきた、馴染みの匂い。
(……なぜ、ここで)
他人の家で、あの家の香りがする。懐かしさが安堵を呼び、同時に胸の奥へ小さな重みを落とした。
その時、奥から足音が近づいた。
現れた女中が、恭しく一礼する。
伏した横顔は白く、髪はきっちりと結い上げられ、きりりとした眉と落ち着いた目元が際立っていた。
年の頃は二十を少し越えたばかり。派手さはないのに、どこか不思議な既視感を覚える。
女中が静かに告げた。
「――
耳に届いた名に、澄弥は思わず立ち止まる。
漂う香りと呼び名が重なり合い、胸の内に細かな波紋が広がった。
女中は姿勢を正し、今度は澄弥へ向き直る。
「……
名乗りのあと、声の調子をわずかにやわらげる。
「そして――こちらは滝川様でいらっしゃいますな。津からの長い道のり、ご苦労やったやろに」
その声音には、労わりと親しみがほどよく混じっていた。
一瞬、言葉が喉に留まる。
村瀬――滝川。二つの名のあいだで、足元がたわむように感じた。
「……ええ」
短く答えると、女中は安堵の笑みを浮かべ、深く一礼する。
そう言うや、澄弥の肩の荷をためらいなく受け取った。
「同じ津の者や、遠慮はいりまへんよ」
声音ににじむのは、京ことばではない素朴な響き。
同郷だけが知る親しみの匂いだった。
志乃はすぐ傍らの手水桶に手を伸ばし、布を軽く湿らせて差し出す。
「京に入ったら入ったで、蒸すばかりで息苦しいほどやさかい……どうぞ、お使いくださいませ」
澄弥は思わず受け取り、額に当てた。
冷えた水気が肌に沁み、汗と緊張がほどけていく。
志乃は荷を抱え、静かに促した。
「まずは、汗を流してくださりませ。道中のお疲れを落としてしまいましょう」
湯殿へと案内され、澄弥は桶の水で顔と腕を洗った。
冷えた水が肌を打ち、砂と暑気が剥がれ落ちていく。
麻の着物を脱ぎ、志乃に渡された浴衣に袖を通すと、布の軽やかさが旅の疲れを吸い取るように感じられた。
澄弥が湯殿をあとにすると、すぐに時雨がその奥へと姿を消す。
戸口の引き戸が静かに閉じ、短い余白だけが座敷に残った。
そのあいだに志乃は盆を携えて戻り、坪庭に面した座敷へ湯呑を並べる。
「よう冷ましときましたさかい……喉を潤してくだされや」
澄弥が礼を伝え、差し出された湯呑を両手で受ける。
薄く香ばしい匂いが鼻をくすぐり、ひと口含めば、冷えた麦の甘みが広がった。
乾いた喉をそっと癒やし、胸の奥に溜まっていた熱気がわずかに下りていく。
湯呑を膝に置き、ふと坪庭に目をやる。
青葉の影が水鉢に落ち、石に雫がはねる。ひとつ、ふたつ――気づけば数えている。
数が並ぶごとに心は静まり、けれど胸の底から別の問いが浮かび上がった。
唇がわずかに動く。
呼びかける名を探すように、喉の奥で言葉が渦を巻いた。
「……その、村瀬さまは……どのような暮らしをされているのですか」
声を出した瞬間、胸の奥にひやりとしたものが落ちた。
兄の名を避け、他人の名で呼ぶ――それだけで、罪を分け合うような気がする。
志乃はすぐには答えず、坪庭の片隅に据えられた水鉢へ視線を落とした。
水面に散った雫を見つめるまなざしは、わずかに陰を帯びている。
やがて目を伏せきれず、座敷の隅――棚の小さな位牌へと静かに移った。
黒塗りの面に淡い光が映り、澄弥の胸に冷たい影が広がる。
志乃は低い声で問いかけた。
「……滝川様は、“
呼吸が一瞬で詰まる。
「……存じません」
自分の口から出た言葉に、胸の奥を締めつけられる思いが走る。
志乃はわずかな微笑を浮かべ、澄弥の前の湯呑に手を添えた。
「なら、それでよろしゅうございます」
声音はやわらかく、耳に落ちる響きは涼やかだった。
だがその瞬間、庭の水鉢に落ちた雫が波紋を広げ、静けさの中に小さな円を描く。
澄弥は、黒の位牌から目をそらせずにいた。
声と水音が重なり、優しさの奥に終わりの線が引かれたように感じる。
喉に残るのは麦湯の香ばしさではなく、冷たい空白。
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