『僕の味』

1980年代、苦学生という言葉が珍しくなかった時代。

僕は、東京の大学に通っていた。


六畳一間のボロアパートで、底なしの貧乏生活を送っていた。

冷房なんて贅沢品はなく、あるのは扇風機と、薄汚れた布団だけ。

窓を開け放っていても、部屋の中は蒸し風呂のようだった。


もちろん、テレビも冷蔵庫もない。

食事は、もっぱら大学の学食で済ませ、夜は水だけを飲んで過ごすことも珍しくなかった。


部屋には、食べるものなんて、何もなかった。

お菓子どころか、乾パン一つない。

友人が遊びに来るなんてことは、めったになかった。


そんなある夜、大学の友人である高橋が、突然、酒を持って部屋にやって来た。

「おい、遊びに来たぜ!」

高橋は、僕の貧相な部屋を見渡しながら、にやりと笑った。


僕は、申し訳なさに押しつぶされそうになった。

ツマミも食材も、何もない。

「悪いな、何もねえんだ」

そう正直に告げると、高橋は気にするなとばかりに、持ってきた酒をコップに注いでくれた。


僕たちは、ただ酒を飲みながら、話しに花を咲かせた。

大学の講義のこと、将来のこと、他愛のない話で、夜は更けていった。


そのうち、二人ともすっかり酔っぱらってしまった。

高橋は、すでに寝ている。

僕も、眠気に抗えず、豆電球を消し、畳の上に横になった。


熱帯夜の蒸し暑さが、肌にまとわりつく。

窓から吹き込んでくる風は、生ぬるく、不快だった。


どのくらい時間が経っただろうか。

ザザザ……という、不気味な音で目が覚めた。

それは、雨音でも、風の音でもない。

小さな生き物が、壁や床を這い回るような音だ。


僕は、その正体が何であるかを知っていた。

このアパートの「本当の住人」たちだ。


彼らの存在には、もう慣れっこだった。

最初の頃こそ、悲鳴をあげていたが、今ではもう、存在を無視するようにしていた。

彼らとは共存するしかないのだと、諦めていた。


ただ、今日はやけに音が大きい気がする。


その時、隣で寝ていた高橋が、うめき声をあげた。

なにか嫌な予感がした。


ゆっくりと目を開けた。

慣れていると思っていたが、僕は、心臓が凍りつくのを感じた。


闇の中、無数の黒い影が、畳の上を蠢いている。

つまり、僕たちの体の上も。


やはりゴキブリだった。


僕は、悲鳴をあげそうになったが、声が出なかった。

そして高橋は、再び、苦痛に満ちた声をあげた。


僕は、震える手で、豆電球のスイッチに手を伸ばし、ゆっくりとつけた。


その光景は、僕の人生で最も恐ろしいものだった。

高橋の顔には、覆いつくすように、無数のゴキブリが張りついていた。


否、彼らは、高橋の顔にかじりついている。

高橋は、ただ、唸り続けている。


僕は、絶叫しながら、新聞紙を手に取り、高橋の顔を叩きつけた。

その衝撃で目を覚ました高橋は、パニックになりながら、のたうち回っている。


無数のゴキブリたちは、一斉に窓の外へと逃げていった。


高橋は、呆然としていた。

顔には、ゴキブリに食い荒らされた跡が、赤く爛れていた。

「大丈夫か!?」

僕は、高橋の肩を揺すった。

高橋は、ゆっくりと頷いたが、その表情は、無そのものだった。


その日以来、高橋は二度と僕の部屋に来ることはなかった。


あの夜、高橋の顔や体は、ひどく食い荒らされていたのに、僕は、全くの無傷だった。

なぜ自分にはゴキブリが襲ってこなかったのか。


その答えは、なんとんなく分かっていた。


僕が、この部屋に越してきた頃、よく顔や体にひっかいたような、ニキビ跡のような傷がついていた。

そして、夜中にうなされることも多かった。

しかし、そんな事も、いつの間にか減っていった。


つまり、あの夜、ゴキブリたちは、すでに僕の味に飽きていたのだ。

新しい「ごちそう」に、夢中になっていたのだ。

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