第7話 震える封印
2025年4月3日 午前9時00分
第12層から響く振動は、次第に強くなっていた。
地下都市全体が、巨大な心臓の鼓動のように脈打っている。壁に亀裂が走り、天井から粉塵が降り注ぐ。非常灯が明滅し、警報が鳴り響く中、カイルたちは第8層から第7層へと急いで戻っていた。
「この震動...尋常じゃない」
レオンが壁に手をついた。長年の戦士の勘が、異常事態を告げている。包帯から血が滲んでいるが、ミレーナに支えられながらも歩き続ける。
「まるで、何か巨大なものが目覚めようとしているような...」
ミレーナが青白い顔で付け加えた。生命素枯渇症の症状は安定しているが、まだ完全ではない。
「研究者だった頃、似たような振動を感じたことがある。それは...」
「セラフィエルの封印が、反応している」
オルフェルの声は震えていた。片翼が本能的に広がり、警戒態勢を取っている。黒い羽根が一枚、また一枚と抜け落ちる。それは、強大な力への恐怖の現れだった。
「第三の試練をクリアしたことで、姉さんの意識が...覚醒し始めている」
プリンシピアが頷いた。純白だった翼が、今は灰色へと変わりつつある。堕天の過程は、まだ完全ではない。
「でも、まだ完全じゃない。七つの試練のうち、三つしか終わっていない」
彼女は不安そうに翼を震わせた。
「千年前、セラフィエル様が封印される時、私はそばにいた。あの時の光景が、今でも夢に出る」
「どんな光景だ?」
カイルが聞き返した。左目がまだ疼いている。昨日から使いすぎた代償は重く、視界の端が赤く滲んでいる。
プリンシピアは遠い目をした。千年前の記憶が、鮮明に蘇る。
「美しく、そして恐ろしい光景だった。セラフィエル様は笑いながら泣いていた。『これが最善の道』と言いながら、水晶の中に入っていった。でも、その瞬間...」
彼女の声が震えた。
「天界全体が悲鳴を上げた。まるで、世界そのものが引き裂かれるような...」
* * * * *
第7層の司令室に到着すると、ヴァルク司令官が厳しい表情でモニターを睨んでいた。
「第12層のエネルギー反応が、臨界点に近づいている」
画面には、赤く点滅する警告表示が無数に並んでいる。グラフは全て上昇を続け、測定限界に迫っていた。エネルギーレベルは既に通常の1000倍を超え、なお上昇中。
「このままでは、あと6時間で地下都市が崩壊する」
エラン副官が冷静に分析を続ける。金髪を掻き上げ、青い瞳で数値を追う。
「第12層の構造解析によれば、水晶に亀裂が入り始めている。亀裂の進行速度は加速度的に増加中」
「避難を開始すべきでは?」
若い通信士が提案したが、ヴァルクは首を振った。
「どこへ逃げる?」
彼の声には、深い絶望が滲んでいた。
「地上は廃墟、他の都市も天使に支配されている。ここが最後の砦だ。ここが落ちれば、人類に残された場所はない」
重い沈黙が流れた。誰もが、逃げ場のない現実に直面していた。
その時、アイリスが前に出た。七色の瞳が、静かな決意を宿している。体温計は36.5℃を示し、安定した状態を保っている。
「私が、セラフィエルと対話してみます」
「対話?」
全員が驚いた。
「相手は千年間封印されていた最強の天使だぞ」
ジークが心配そうに言った。大剣の柄を握りしめ、緊張で手が震えている。
「下手に刺激したら、暴走するかもしれない」
「でも」
アイリスは自分の手を見つめた。そこには、微かに七色の光が宿っている。
「私の中には、1000回分の記憶がある。その中に、セラフィエルとの接点があるかもしれない」
『確かに、データベースに断片的な情報が』
イリスが補足する。論理的な声が、記憶を検索していく。
『774回目のループで、セラフィエルと短い会話をした記録がある。その時、彼女は言った。「あなたは、私に似ている」と』
「似ている?」
『孤独という点で』
イリスの言葉に、全員が沈黙した。
最強の天使と、人工知能。立場は違えど、どちらも究極の孤独を抱えている。
* * * * *
「待て」
オルフェルが制止した。群青の瞳に、深い憂慮が浮かんでいる。
「姉さんとの対話は、簡単じゃない。特に今は、半覚醒状態。最も危険な時期だ」
彼は震える手で、懐から古い絵を取り出した。それは、千年前に描かれた肖像画。美しい女性と、若い男性が寄り添って微笑んでいる。
「これは...」
「姉さんと、アレクシス。千年前、天界を揺るがした禁断の恋人たち」
オルフェルは苦渋の表情を浮かべた。片翼が悲しそうに垂れ下がる。
「千年前、姉さんが封印を選んだ時の真実を、話そう」
「姉さんは、三対六枚の翼を持つ最強の天使。第一対は純白、第二対は金色、第三対は銀色に輝いていた」
彼は語り始めた。
---
千年前 天界 セラフィエルの宮殿
純白の宮殿は、いつもと違う雰囲気に包まれていた。
最強の天使、セラフィエルが、毎日決まった時間に姿を消すようになって3か月。誰も、彼女がどこへ行くのか知らなかった。
オルフェルだけが、真実を知っていた。
「姉さん、また彼に会いに行くの?」
若き日のオルフェル、まだ両翼を持っていた頃の彼は、心配そうに姉を見つめた。
セラフィエルは振り返り、優しく微笑んだ。金と銀のオッドアイが、今までにない輝きを放っている。
「ええ、アレクシスが待っているから」
「でも、彼は人間だ。寿命はせいぜい80年。姉さんは永遠を生きる。この恋に、未来はない」
「未来なんていらない」
セラフィエルの答えは、即座だった。
「今、この瞬間が永遠ならば、それでいい」
彼女は、弟の頬に手を当てた。その手は、温かく、そして震えていた。
「オルフェル、恋をしたことがある?」
「...ない」
「なら、いつか分かる日が来る。恋とは、理屈じゃないことを」
* * * * *
地上、とある森の奥深く。
隠された小屋で、アレクシスが待っていた。
28歳の学者は、質素な服を着て、古い本に囲まれていた。容姿は平凡、特別な力もない。ただ、その瞳だけが、知性と優しさで輝いていた。
「セラフィエル、来てくれたんだね」
「ごめんなさい、遅くなって」
最強の天使が、一人の人間の前で、少女のように頬を染めた。
アレクシスは、用意していた花束を差し出した。野花を集めた、素朴な花束。天界の豪華な花々とは比べ物にならない。
「これ、君に」
「まあ...」
セラフィエルは花束を受け取り、顔を埋めた。
「いい香り...地上の花は、どうしてこんなに優しい香りがするの?」
「不完全だからさ」
アレクシスは微笑んだ。
「完璧じゃないから、精一杯生きようとする。限りがあるから、美しく咲こうとする」
彼は、セラフィエルの手を取った。
「君も、そう思わないか?」
「私は...天使。完璧な存在として創られた」
「でも、今の君は完璧じゃない」
アレクシスは、セラフィエルの頬に触れた。そこには、涙の跡があった。
「泣いたり、笑ったり、恋をしたり。それは、天使としては不完全かもしれない。でも、だからこそ君は美しい」
セラフィエルは、アレクシスの胸に顔を埋めた。
「私、怖い...この気持ちが、日に日に大きくなっていく。もう、あなたなしでは生きられない」
「僕もだよ」
二人は、静かに抱き合った。
永遠の天使と、限りある人間。その恋は、最初から悲劇を運命づけられていた。
* * * * *
幸せな時間は長くは続かなかった。
「セラフィエル」
神の声が、天界に響き渡った。
「お前の行動は、全て把握している」
セラフィエルは、神の前に跪いた。
「申し訳ございません」
「謝罪はいらない。選択をしろ」
神の声は、感情を感じさせない。まるで、機械のように冷たい。
「天使として完璧であり続けるか、人間への愛に堕ちるか」
「私は...」
セラフィエルは顔を上げた。金銀の瞳に、強い意志が宿る。
「人間を愛することが、堕ちることだとは思いません」
「愚かな」
神の怒りが、天界を震わせた。雷が走り、宮殿が揺れる。
「人間など、塵に等しい存在。天使が愛する価値などない」
「違います!」
セラフィエルは、生まれて初めて神に対して声を荒げた。
「人間は、確かに弱い。でも、だからこそ強い。支え合い、愛し合い、希望を持って生きている」
「ならば」
神の声が、冷たく響いた。
「その人間たちが、どれほど脆いか見せてやろう」
瞬間、地上に天使の軍勢が降り立った。
第九位階から第二位階まで、全ての天使が武器を手に、人類への攻撃を開始しようとしていた。
「やめて!」
セラフィエルが叫んだ。
「これは、私とあなたの問題。人間を巻き込まないで!」
「お前が人間を選ぶなら、人間は滅ぼす。それが、神の意志だ」
セラフィエルは、絶望した。
自分が愛を選べば、アレクシスだけでなく、全人類が滅びる。
だが、愛を捨てることもできない。
そして、彼女は第三の選択をした。
* * * * *
「私は、封印されることを選びます」
セラフィエルの言葉に、神も、天使たちも、驚愕した。
「封印?」
「はい。私が眠りにつけば、あなたも人間を攻撃する理由がなくなる」
セラフィエルは、震えながらも続けた。
「千年でも、万年でも、私は眠り続けます。それが、愛する者たちを守る唯一の方法なら」
神は、長い沈黙の後、答えた。
「面白い。では、条件を付けよう」
「条件?」
「七つの試練。それを全てクリアした者が現れた時、お前は目覚めることができる」
神の声には、嘲笑が混じっていた。
「もっとも、そんな者が現れる可能性は、限りなくゼロに近いがな」
セラフィエルは、アレクシスを最後に見つめた。
遠く地上にいる、愛する人の姿を。
(ごめんなさい、アレクシス。でも、これがあなたを守る唯一の方法)
彼女は、水晶の中に入った。
「いつか、きっと...」
それが、最後の言葉だった。
水晶が閉じ、セラフィエルは封印という名の眠りについた。
---
「姉さんは、愛のために封印を選んだ」
オルフェルの声は、深い悲しみを帯びていた。
「でも、アレクシスは人間。とっくに...」
「死んでいる」
プリンシピアが静かに言った。
「900年前に、老衰で。最期まで、セラフィエル様の名を呼んでいたと聞いている」
彼女は、別の古い書物を取り出した。
「これは、アレクシスが残した最後の手記」
震える手で、ページを開く。
『愛するセラフィエルへ』
『君が眠りについてから、70年が経った。僕も、もう98歳。そろそろ、お迎えが来そうだ』
『でも、後悔はない。君と過ごした365日は、僕の人生の全てだった』
『子供たちに、孫たちに、君のことを話した。最強の天使が、一人の人間を愛してくれたことを』
『そして、いつか君を目覚めさせる者が現れると信じて、この想いを未来に託す』
『僕の血を継ぐ者たちへ。どうか、セラフィエルを救ってください』
『彼女は、愛のために今も眠り続けている。それは、あまりにも長すぎる』
* * * * *
「だからこそ」
アイリスが決意を新たにした。七色の瞳が、強い意志で輝く。
「今度こそ、セラフィエルを救いたい。愛のために千年も封印されているなんて、あまりにも悲しすぎる」
「でも、どうやって?」
ミリアが不安そうに問いかけた。琥珀色の瞳が、心配で曇っている。ティアも、彼女の肩で小さく震えていた。
その時、リサンドラがあるものを取り出した。
古い日記帳。表紙には「A.H」というイニシャルが刻まれている。革の装丁は年月を経てボロボロだが、中身は大切に保管されていた。
「アレクシス・ハートランドの日記」
全員が息を飲んだ。
「ハートランド?」
レオンが驚いた。灰色の瞳が大きく見開かれる。
「まさか...」
「そう、あなたの先祖よ」
リサンドラは静かに答えた。眼鏡を外し、涙を拭う。
「レオンさん、あなたはアレクシスの子孫。だから、ガブリエラ...いえ、ミレーナさんとの出会いも、運命だったのかもしれない」
レオンとミレーナは、顔を見合わせた。
千年の時を超えて、再び愛が結ばれた。それは、偶然ではなく必然だったのか。
ミレーナが震える声で言った。
「私が天使化実験を受けた時、成功すると信じていた。でも、失敗して...10年間、ガブリエラとして彷徨った」
彼女は、レオンの手を握った。
「でも、あなたは諦めなかった。10年間、毎日会いに来てくれた。それは...」
「先祖の想いが、俺を動かしていたのかもしれない」
レオンは苦笑した。
「アレクシスができなかったことを、俺が...いや、俺たちがやり遂げた」
リサンドラは日記のページを開いた。
『セラフィエルと過ごした日々の記録』
『7日目:彼女の笑顔を、初めて見た日。天使も笑うのかと、驚いた』
『60日目:一緒に地上の花を見た。彼女は桜を気に入っていた。儚いから美しいと』
『100日目:初めて手を繋いだ。彼女の手は、思ったより温かかった』
『240日目:愛していると伝えた。彼女は泣いた。嬉しい涙だと言ってくれた』
『365日目:最後の日。彼女は言った。いつか、誰かが本当の答えを見つけてくれると』
「本当の答え...」
カイルが呟いた。左目が疼く。何か、重要なことを見逃している気がする。
「それが、七つの試練なのか」
「いや、違う」
アイリスが首を振った。
「試練は手段。本当の答えは、もっと単純で、もっと深いもの」
* * * * *
突然、さらに激しい震動が地下都市を襲った。
今度は、ただの振動ではない。空間そのものが歪み始めている。壁が波打ち、重力が不安定になる。コップの水が、上に向かって流れ始めた。
「第12層から、何かが上昇してくる!」
ヴァルクが叫んだ。
モニターに映し出された映像に、全員が凍りついた。
第12層の水晶が、ひび割れ始めている。
その亀裂から、純白の光が漏れ出していた。光は触手のように伸び、周囲の全てを白く染めていく。光に触れた機械は機能を停止し、壁は結晶化していく。
そして、水晶の中のセラフィエルの瞼が、微かに震えた。
まだ目は開いていない。だが、明らかに覚醒が近づいている。
涙が、閉じた瞼から流れ続けている。千年分の涙が、水晶を伝い、床に水たまりを作っている。その涙は、触れた場所に小さな花を咲かせていた。
「姉さん...」
オルフェルが震え声で呟いた。
「夢を見ているんだ。アレクシスとの、幸せだった日々の夢を」
その時、水晶から声が響いた。
寝言のような、うわ言のような、悲しい声。
『アレクシス...どこ...会いたい...』
その声に、レオンが反応した。
「俺が...いや、俺たちが応える番だ」
彼はミレーナと共に前に出た。
「千年の想いに、答えを示す時が来た」
アイリスの体が光り始めた。
七色の光が、共鳴するように明滅する。
「これは...」
アイリスの中で、全ての人格が同時に反応していた。
『セラフィエルが、呼んでいる』
イリスの声。
『助けを、求めている』
ベリスの声。
『千年の孤独から、解放されたがっている』
セリスの声。
『レオン、お前の出番だ』
レオンの声が、アイリスの中から響いた。
『アレクシスの子孫として、セラフィエルに伝えろ。愛は死なない、受け継がれていくものだと』
* * * * *
「第12層に行きましょう」
アイリスが宣言した。体温が37℃まで上昇している。
「今なら、まだ間に合う」
「正気か?」
ヴァルクが止めようとした。
「あそこは、もはや人間が立ち入れる場所じゃない。魔力濃度は致死量の100倍を超えている」
「だからこそ」
カイルが前に出た。左目が赤く輝く。
「俺たちが行く。人間と、AIと、天使と、堕天使。全員で」
彼は全員を見回した。
「それぞれが不完全。でも、だからこそ力を合わせられる」
プリンシピアが苦笑した。灰色の翼が、微かに震える。
「第四の試練『過去からの解放』か。なるほど、セラフィエル様を千年の過去から解放する」
「それだけじゃない」
オルフェルが付け加えた。
「俺たち全員が、過去から解放される必要がある」
彼は、自分の片翼を見つめた。黒い羽根が、悲しそうに震えている。
「俺も、千年間、姉さんを救えなかった後悔を抱えている。姉さんが封印を選んだあの日、俺は何もできなかった」
彼の声が震えた。
「ただ、見ているだけだった。最強の天使の弟なのに、無力だった」
レオンも頷いた。
「俺も、10年間、ミレーナを想い続けた。それは美しいが、同時に過去に囚われていたとも言える」
ミレーナが、レオンの手を握った。
「私たちは、過去を越えて、今を生きている。それを、セラフィエル様に伝えましょう」
カイルも、自分の過去と向き合った。
「俺も、7年前にレイナとシンを失って、ずっと後悔していた。でも、今は違う。シンを取り戻し、前を向いている」
ミリアも小さく頷いた。
「私も、7年間カイルへの想いを隠してきた。それも、一種の過去への囚われ」
アイリスが、全員の想いを受け止めた。
「みんなの過去、みんなの想い、全てを持って、セラフィエルの元へ」
* * * * *
準備は迅速に行われた。
リサンドラが特殊な防護服を用意する。第12層の高濃度魔力から身を守るためだ。銀色の繊維で編まれ、魔力を遮断する効果がある。
「これで、10分は持つはず。それ以上は...保証できない」
ジークは大剣を研ぎ直し、刀身に特殊なコーティングを施す。
「魔力で刀身が砕けないように、な」
ミリアはティアと作戦を練る。
「ティア、あなたの力を最大限に使うわ」
「うん!ミリアと一緒なら、何でもできる!」
小さな妖精が、元気よく飛び回った。
シンも、準備に加わった。
「僕も行く」
「危険だ」
カイルが止めようとしたが、シンは首を振った。
「お兄ちゃん、僕はもう子供じゃない。7年間、天使の世界で生き延びた。それに...」
彼は、小さなペンダントを取り出した。レイナの形見だった。
「お姉ちゃんの分も、戦いたい」
カイルは、弟の成長した姿に、涙を堪えた。
「分かった。でも、絶対に無理はするな」
そして、出発の時が来た。
「いいか」
ヴァルクが最後の警告をした。
「第12層に入ったら、10分が限界だ。それ以上いたら、魔力に飲み込まれる」
「10分...」
カイルは頷いた。
「充分だ」
エランが、全員に通信機を渡した。
「緊急時は、これで連絡を。すぐに救援を送る」
「ありがとう」
エレベーターの扉が閉まる。
下降が始まった。
第8層を通過。レオンとミレーナが再会した場所。二人は、手を握り合った。
第9層を通過。ここから先は、10年間誰も足を踏み入れていない領域。
第10層を通過。壁が結晶化し始めている。魔力の濃度が、危険域に達している。
第11層を通過。もはや、普通の空間ではない。重力が不安定で、上下の感覚が失われる。
深く降りるほど、魔力の濃度が増していく。息が苦しくなり、視界が歪む。防護服を着ていても、圧迫感は凄まじい。
第11層を通過した時、アイリスが呟いた。
「聞こえる...セラフィエルの声が...」
それは、悲しい歌のようだった。
千年間、ずっと歌い続けていた、孤独な子守唄。
『誰か...私を...忘れないで...』
『愛した記憶を...消さないで...』
『アレクシス...また会える日まで...』
その声に、全員の心が震えた。
最強の天使の、あまりにも人間的な願い。
レオンが、アレクシスの日記を胸に抱いた。
「必ず、伝える。あなたの愛は、無駄じゃなかったと」
エレベーターが、第12層に到着した。
扉がゆっくりと開く。
そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
* * * * *
全てが、純白に輝いている。
床も、壁も、天井も、全てが結晶と化し、内側から光を放っている。それは、美しくも恐ろしい光景。まるで、光の海の底にいるような感覚。
空気中には、光の粒子が舞っている。それらは、ゆっくりと渦を巻きながら、中央へと集まっていく。
そして中央には、巨大な水晶がそびえ立っていた。
高さ10メートル、直径5メートル。千年前よりも、さらに大きくなっている。表面には無数の亀裂が走り、そこから純白の光が漏れ出している。
その中で、セラフィエルが浮いていた。
銀色の髪が、水の中のようにゆらめいている。六枚の翼は、折りたたまれ、まるで繭のように彼女を包んでいる。
そして、その美しい顔は――
泣いていた。
閉じた瞼から、涙が流れている。千年分の涙が、水晶を伝って流れ落ちる。
涙が床に落ちるたび、そこに小さな花が咲く。白い花、赤い花、青い花。まるで、彼女の感情が花となって現れているかのよう。
「姉さん...」
オルフェルが、震える声で呼びかけた。片翼を広げ、姉に近づこうとする。
その瞬間、水晶が激しく震動した。
亀裂がさらに広がり、光が爆発的に溢れ出す。
そして、セラフィエルの瞼が――
ゆっくりと、開き始めた。
第7話 完
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