第43話 大事なお話はアザラシと共に 後編

 真剣な顔。

 和やかな空気が、徐々に引き締まっていくのを肌で感じる。

 


「なんの話なんだ?」

「わたしが忍者として挫折して、太ってしまったきっかけの話なんです」

「挫折、か」

「はい。ぽっきりといっちゃった話です」

「…………」



 挫折。

 それがどれだけ辛いことか、俺はよく知っている。

 

 誰しもが必ず、夢を持ったことがあると思う。

 その中でも、実際に動いた人だけが当たる壁。

 何かをしたくて、何かになりたくて、必死に手を伸ばして、夢を持ったことを後悔しながらも、ただけど諦めたくなくて意地になって、健気に心を張り詰めて――

 だけど、自分の努力が無駄だったんだと、苦しみになんの意味もなかったのだと知った時、限界が来てしまう。

 人は心のどこかで信じているのかもしれない。

 

 努力は必ず報われる、という言葉を。


 だけど、それはきっと報われることを世界から望まれている人間が口にした言葉だと思う。

 ほとんどの人は報われなくて、心が折れてしまって、立ち去って、自分は頑張った努力したんだって、自分自身を慰めながら挫折するしかない。


 この目の前の許嫁兼恋人も、そのような経験をしてきたのだろうか。



「幼いころ、わたしは忍者としての訓練にあけくれていました。体を動かすのが大好きで、もっとやりたいって駄々をこねて、よくパパを」



 今の姿からは全く想像ができない。

 

 

「俺と出会った後か?」

「そうですね。事件が起きたのは、出会った後です。ですけど、修行自体はずっと前からしていましたよ。それこそ、物心がつく前から」

「すごいな」

「まあ、今のわたしは色々と忘れてしまっていますけどね。常に使わないと、技は廃れてしまいますから」

「それだけの技術を体得していたのか」

「そんな褒められたものじゃないですよ。分身とか変わり身とか火遁の術とか、基本的なものしかパパは教えてくれませんでしたから」

「いや、十分すごいぞ!」

「あはは」


 

 明麻絵の疲れた顔を見て、ハッとした。

 俺は空気を読まなすぎだ。



「すまない」

「……いえ。御手くんらしいですよ。ちょっと気持ちがほぐれました」



 その言葉を鵜呑みにするほど、俺はバカではない。

 話を聞くのに徹しなければ。

 


「あの頃は毎日が充実していました。今が楽しくないわけではないのですけど、昔はなんていうか、世界がずっとずっと広く感じていたんです。どこまでも広がっていて、自分の2本の足でどこまでも行ける。行ってみせる。そう思っていました。無敵だったんだですよ」

「……ああ」



 ああ。

 相槌がこれしか思いつかない。


 

「あの日、わたしはちょっと調子に乗っていたんでしょうね。普段はパパと一緒に近所の山に入っていたのですが、こっそりひとりで入ったんです。ですが、それが間違いでした」

「……ああ」

「ちょっとした不注意だったんだと思います。いつのまにか、わたしは迷子になっていました。どこに行っても知らない木々や地形しかなくて、心細くて、必ず見つけてくれるはずだって、狼煙のろしを上げながらパパのことを待っていました」

「ああ」



 子供がひとりで森の中で助けを待つ。

 どれだけ心細かったのだろうか。


 俺だったら、狼煙のろしをあげることもできなくて、泣き続けることしかできなかっただろうな。


 

「だけど、パパは中々見つけてくれなくて、夜になってしまいました。一応は野宿の方法を知っていたので、動物に見つからないようにひっそりと木の上に隠れていたんです」



 明麻絵の声から、感情が消えていっている気がする。



「その時です」



 普段からは想像できないほど、冷たい声音。

 それなのに、語り口が揺らいでいる。



「突然、何かがわたしの手を掴んだんです。瞬時に相手の姿を確認しようとしました。しかし、相手の姿はありませんでした。見えない何かに引っ張られていたんです」

「……見えない、か」

「わたしと同じ透明人間ではありませんでした。透明人間は透明人間が見えますから。だからこそ、すごく怖かったです。得体のしれない、不気味な存在が相手だったんですから」

「……ああ」

「そいつは言っていました。見つけた。ついに見つけた」

「……見つけた、か」



 話を聞いているだけでも身の毛もよだつのに、実際に体験した時の恐怖はいかほどだったのだろうか。


 

「わたしは抵抗しようとしました。忍者としての技術を使って、全力で」

「……全力」

「でも、相手には何も通じなかったんです。火を噴いても、クナイを刺しても、全力で蹴っても……。当たっている感触はありました。ですけど、大地を相手にしているみたいに、ビクともしなかったんです」



 必死に覚えた技術のすべてが、無意味。

 それはどれだけの無力感だっただろうか。



「もう打つ手がなくて、体力もつきて、さらわれる。そう思った瞬間」



 絶望の時。



「パパが来てくれたんです。それからのことは覚えていませんが、後でパパが追い払ってくれたと聞きました」

「よかったな」

「だけど、その後も地獄でした。夜になると、あの不気味な存在の気配が迫ってくる気がしたんです。トラウマのせいなのか、現実なのかはわかりませんでしたけど、とにかく怖かったです。今もたまにあります」



 助けられて、めでたしめでたし。

 とはならずに、その後も人生は続いていく。

 それが現実、か。

 

 

「それから、忍者としての修業をする気分にはなれなくなりましたし、外に出るのが怖くなってしまったんです。塞ぎこんで、頑張って学校に行ったりもしましたけど、結局イジメられてしまって……」

「それは辛かっただろうな」

「辛かったですよ」

「でも、御手くんがいてくれたから、わたしは歩こうと思ったんですよ」

「…………俺は何もしてないぞ」

「せめて、御手くんとの再会の約束は守りたい。その一心で立ち直れたんです」



 そうだったのか。

 俺があの約束を果たすために益荒男を目指したが、明麻絵はあの約束を支えにしていたのか……。


 ありがとう。



「話してくれてありがとう」

「嫌いになっていませんか?」

「なるはずがないだろう」

「そう、ですか」



 むしろ、守りたいと強く思っている。


 この明麻絵という少女がさらわれるなんて想像したくない。

 

 

「ねえ、御手くん。頭を撫でてください」

「いいのか?」

「はい」



 明麻絵の髪は、とても柔らかくて、どこか甘い香りがして、俺の心に温かみとしてしみこんでくる気がした。


 だが。



「ちょっとブラシが甘くないか?」

「じゃあ、今度御手くんがしてください」

「いいのか?」

「御手くんならいいんですよ」

「そうか」



 髪を撫でていたのは、何分だったか、何十分だったか。

 明麻絵はいつのまにか寝てしまった。

 安心しきった寝顔を見ていると、心臓がザワザワして、ついついニヤけてしまう。

 明麻絵が俺を腹枕で寝かしつける時も、こんな気持ちだったのだろうか。


 この余韻に浸っていたい。

 だが、今のうちにやっておかねばならないことがある。



「親父、話がある」

「なんだい?」



 お茶の間にいた親父に話しかけたが、テレビを見たまま、俺に顔を向けてくれない。


 普段なら、にこやかな笑みを見せるのに。


 

「明麻絵のトラウマについて聞いた」

「そうかい。明麻絵ちゃんは?」

「寝てる」

「そうかい」



 親父の声音はいつもと変わらない。

 柔和で、朗らかで、何を考えているか読み取れない。


 まるで、理想の父親を演じるのに徹しているような。


 

「親父、聞いていいか?」

「…………」

「明麻絵を狙っている相手の話だ」

「…………」



 やめてくれ。

 黙らないでくれ。


 

「もしかして、明麻絵を狙っている存在は、親父がよく知っている相手ではないか?」



 親父の体の震えが、言葉より先に教えてくれた。


 

「……さすが御手だね」



 なあ、親父。

 俺は今、褒めてほしいわけじゃないんだよ。


 褒め言葉に逃げないでくれ。


 俺はただ、はぐらかさずに、すべてを教えて欲しいだけなんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る