6 故郷は、遠く

 クラウスさんが床にぶ厚い本を落としていて、

「すみません」

 慌てた様子で腰をかがめて拾い上げようとしていた。

「まったく。本を大事にしなさいよ、タダじゃないんだから」

 エレノアねえさんは、舌打ちでもしそうな口ぶりだ。やはり、恋のライバルなのか……。

「エレノア、ユウに話の続きを」

 クリスティーナさんが場をとりなすように言った(きっと優しいクリスティーナさんは、自分のために二人に争ってほしくないのだろう)。 

「そうね。ええと、ユウ。それで、あなた、元の世界に帰りたいの?」

 エレノアねえさんが、テーブルの上で両手の指を組んで言った。

「うん。そもそもいきなりこっちに来ちゃったからさ、みんな心配してると思うんだよね。そう言えば道路に置きっ放しにした俺のスクールバッグ、あいつら家まで届けてくれたかなあ。俺の親にどう説明してるんだろ。赤い魔法陣からエレノアねえさんが現れたことなんて信じなさそうだから、家出だと思われていたりして」

「ねえ、それって、向こうに戻って、以前のように暮らしたいってこと?」

「うん。だって、俺っていくらこっちの人間でも、誰だか分からないんだろ? それなら、これまで通り元の世界で人生を送った方がいいと思うんだよね。でも、よければ、たまには、こっちの世界に遊びに来たりもしたいな。こうして、みなさんとも知り合えたわけだし」

 俺はちらりとクラウスさんに視線を送ってみた。クラウスさんはさっきの本を返したらしく手ぶらで、次の本を選んでいるのだろう、本棚に視線を向けていた。

「ユウ。私も、あなたに出会えてよかったわ」

 エレノアねえさんは、慈しむようなほほ笑みを顔に浮かべた。

「エレノアねえさん……」

「でもね、ユウ、私はあなたに悲しい話をしなければならない」

 エレノアねえさんは真剣な顔つきになる。

「な、何?」

「あなた、向こうに戻ったら、死ぬわ」

「は?」

「いえ、すぐに、ということではなくて、早死に? 二十代……、三十代まで行けるかしら? とにかく人生長くないはずよ」

「何だよ、それ!? 意味分かんねえ」

 俺はクリスティーナさんの方を見た。助けを求めるように。

「ユウ。あなたの手を、少し触ってもいいですか?」

 クリスティーナさんは落ち着いた声で言った。

「は、はい」

 俺は右手をクリスティーナさんに差し出した。

 クリスティーナさんは揃えた右手の人差し指と中指で俺の手にそっと触れ、これは……、とつぶやいた。すると、エレノアねえさんも同じように触れた。

「ありがとう、ユウ」

 クリスティーナさんが言い、二人の魔女は手を引っ込めた。俺も手を戻した。二人の魔女は顔を見合わせ納得気な顔で頷き合い、そして俺の方を向き、エレノアねえさんが口を開いた。

「あなた、向こうに行けば、秒で死ねるわ!」

 俺、絶句。

 訳分かんないところから、全然進んでねえし!


「そもそもの話からしなければなりませんね。ユウ、異世界を行き来するのは、体に悪いことなのです。ルーク様のいた世界とこちらの世界のように似たような世界間ならともかく、丸っきり違う世界、つまりあなたのいた人間に魔力は備わっていない世界と、ここのように人間一人一人に程度の差はあっても必ず魔力がある世界では、特に。ルーク様でさえあちらの世界では、よく病に倒れられたそうで。養父母の方がルーク様の帰還をひどく賛成なされたのも、それが理由です。それに、ユウ、あなたが体内に宿している魔力量はとても多いのです。魔力が多ければ多いほど、それがない世界では生きづらくなる。秒と言うのは大げさですけれど、向こうに戻って暮らしていれば、近いうちに体に不調を来たし……」

「あの、クリスティーナさん。俺、向こうで、全然、普通に生きていましたけど」

「魔力がしまいこまれていたのよ。凝縮されて体の奥深くにね」

 さっき俺の顔面がどう変形したのかは分からないが、そ、そんな顔でにらまないでよ、と言ったきり黙っていたエレノアねえさんが口を挟んだ。「でも、かすかに滲み出ていた。おそらく、それはここ最近のことね。長い年月を経て、封印がゆるくなって来たのね。だから私が迎えに行けた。もし迎えがなくあちらの世界で生きていたら……」

「早死に?」

 俺は疑わしげに言ってやったが、頷いたのはクリスティーナさんだった。

「最近、体調が悪くなったりしていませんでしたか?」

「え、さあ、どうだろ。あ、風邪を引きやすくなってるなあって、この前、思ったかな?」

「こちらに来て、体調はどうですか?」

「そう言えば、体がだるい感じがしていたのがなくなってる」

 俺は胸元に右手を当てた。「体調、いいです。すっきりしてる感じです」

「そうですか」

 クリスティーナさんは、診察を終えたお医者さんのように微笑した。「本来の世界に体がなじんだこと、そして封印されていた魔力がすべて放出されたことも影響していますね。今のあなたの体には、魔力が満ち満ちています。その状態で向こうの世界で暮らすのは、やはり危険ですよ」

 俺は自分の右手を見た。なんの変哲もない、今まで通りの右手だ。正直、魔力がある実感はまったくない。

「なじむって、こっちの言葉をすぐに分かるようになったのも、あれがなじんでたってことですか?」

「そうそう」

 エレノアねえさんが、楽しそうに頷く。「この世界の人間が異世界に飛ばされてこちらに戻って来ると、言葉は必ず思い出すものなの。不思議だけど、言葉をろくに覚えていない幼いころに向こうに行っても。赤ん坊のころでもね」

「へえ。遺伝子に刻まれてるって感じなのかな」

「おそらくね。ああ、そうだ。ユウにあれを見せるわ。ユウ、手伝って」

 エレノアねえさんは椅子から立ち上がった。

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