第2章:拒絶と覚醒の狭間で


エルシア・ヴィオレットと名乗る女性の言葉は、悠斗の平凡な日常を根底から揺るがした。「異界の賢者」という響き、故郷の危機という訴え。それは、彼が読み耽るファンタジー小説の世界そのものだった。しかし、現実に目の前で語られると、その言葉はあまりにも荒唐無稽に響いた。

「異界の賢者、ですか……。すみません、俺はただのシステムエンジニアで、魔法とか、そういうのは全く……」

悠斗は困惑を隠せないまま、曖昧に言葉を濁した。エルシアは、そんな悠斗の反応にも動じることなく、透き通るような瞳で彼を見つめ返した。

「貴方の世界には、私達の世界にはない『理(ことわり)』が存在します。貴方が手にしているその板状の道具(スマートフォン)や、壁に映し出される映像(テレビ)は、私達の古代魔法と通じるものがある。貴方の持つ知識こそが、私達の世界を救う鍵となるかもしれません」

エルシアは、悠斗が持つ現代の知識や技術を、自身の世界の古代魔法と共通する「理」を持つものだと解釈していた。彼女の言葉は、悠斗の頭の中で、現実と非現実の境界線を曖昧にしていく。しかし、それでも悠斗は、自分の平凡な日常が壊れることへの恐れを捨てきれなかった。

「俺には無理です。俺は、誰かを救えるような人間じゃない。それに、俺の世界を捨てて、見知らぬ異世界に行くなんて……」

悠斗は、過去の失敗や恋愛経験からくる自己肯定感の低さ、そして何よりも「変化」への恐怖から、冒険を拒否した。彼の脳裏には、仕事で小さなミスをして上司に叱責された記憶や、意中の女性に告白して振られた苦い経験が蘇る。自分には特別な力などない。英雄になれるはずがない。そう、彼は固く信じていた。

エルシアは、悠斗の言葉に悲しげな表情を浮かべた。しかし、その瞳の奥には、諦めではない、強い意志の光が宿っていた。

「貴方は、ご自身の力を過小評価している。貴方の瞳には、真実を見抜く力と、他者を思いやる優しさが宿っている。それは、私達の世界のどんな強力な魔法よりも、尊い力です」

エルシアの言葉は、悠斗の心の奥底に、忘れかけていた感情の種を蒔いた。誰かに必要とされている。自分にも、何かできることがあるのかもしれない。そんな微かな希望が、彼の胸に芽生え始めた。しかし、同時に、その希望は、彼がこれまで築き上げてきた「平凡な自分」という殻を破ることへの、新たな恐怖も生み出した。

翌日、悠斗は会社を休んだ。エルシアは、彼の部屋の片隅で静かに座っていた。彼女は、悠斗が差し出したスマートフォンを興味深そうに眺め、その操作方法をすぐに理解した。彼女の知的好奇心と、異世界に対する純粋な眼差しは、悠斗の心を少しずつ溶かしていく。悠斗は、エルシアに自分の趣味であるファンタジー小説を読み聞かせた。物語の中の英雄が困難を乗り越え、成長していく姿に、エルシアは真剣に耳を傾けた。

「この物語の英雄は、最初から強かったわけではない。彼もまた、多くの迷いや恐れを抱えていた。しかし、彼は大切なものを守るために、一歩を踏み出した」

エルシアの言葉は、まるで悠斗自身に語りかけているようだった。悠斗は、エルシアの純粋な瞳と、彼女が抱える世界の重みに、次第に無視できない感情を抱き始めていた。彼女をこのまま放っておくことはできない。しかし、自分に何ができるのか。悠斗の心は、拒絶と覚醒の狭間で激しく揺れ動いていた。

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