家督 宗盛 その一
夜が明けても、六波羅はしんとしていた。
枕辺の紙には、黒い三行が乾いている。
我は欲に焼かれたり。
人を想ふ道、忘るるべからず。
──言葉は残れど、人は残らず。
宗盛は、その紙を怖いような気持ちで見つめた。
寝所の端には白布の輪郭が静かに横たわり、夜のうちに何度も言い聞かせた覚悟は、朝になっても体に入らない。
世界のほうが半歩遅れてついて来る。
胸の底に小石が入ったようだ。重く、転がらず、ただ居座っている。
(父上なら、どうした。)
喉の奥まで上がった呼び名を飲み込み、控える者の気配を耳で数える。
膝がひとたび抜けそうになり、紙の端を指で押さえて堪える。
指は力が入らず、薄く震え、紙がかすかに鳴った。
筆を取る。が、墨は重く、手首は心と別の拍で動く。
「御所へ奏聞……」と書きかけて止め、横に小さく払い消す。
「市の値、定むべし」も、言葉が強すぎる気がして、また消す。
「喪の作法」か、「兵の規め」か、「病の救い」か――並べれば並べるほど、どれも先へ出しづらくなる。
「狼藉」の字を一度、誤った。
払いを入れ直した跡が黒く残る。
扇の音が遠く、朱を取ろうとして、指が空をつかむ。
筆先が紙の上ですべり、止まるたびに墨の丸い重みが増える。
戸口の陰で家臣らが視線を交わす。
誰かが小さく咳払いをして、すぐ呑み込んだ。
怪訝そうな目が、こちらを見ないようにして、しかしこちらに集まってくる。
硯を差し替えようと半歩出た若党の肩が、同僚の手にそっと止められる。
助けるべきか、見守るべきか――場の判断も宙に浮いたままだ。
まず三つだけ、拙い字で触れを書いた。
やっとのことで順を定め、
兵の狼藉を禁ず。
徴発には価を置け。
病む者には粥と薬湯。
書き添えの語を足そうとして、また呑み込む。
印は薄い。
けれど、それだけは先に出すと決めた。
朱は冷たく、印の輪郭が紙繊維にじわりと沈む。押し直そうとしてやめる。
これでよい、これだけは先だ――胸の底の小石が、わずかに位置を変えた気がした。
戸の外で草履が砂を踏む小さな音。
蜂蜜を含んだ薬湯の匂いがまだ淡く残っている。
怪訝そうだった家臣の肩が、ほんのわずかに下りる。
世界のほうが、ようやくこちらへ寄って来る。
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