清盛、没す
そのころ、京の都には重い熱病が流行していた。
六波羅の館にあっても例外ではない。
天下の権を一身に集めた平清盛の身は、烈しい熱に焼かれ、昼夜の境もなくうなされ続けていた。
肌は常の色を失い、汗は幾度拭っても塩を吹き返す。
悪寒に身が縮み、次の刻には湯に沈むような灼けが襲う。
歯の根は合わず、胸の底で短い呻きが泡立っては消えた。
寝所の帳は重く垂れ、祈祷と加持の声は絶えず、扇ぎ手の腕は疲れ果てても止まらなかった。
団扇の骨がかすかに軋み、薬湯と汗と油煙の匂いが、夜の呼吸を重くする。
その夜、門のあたりに異しき気配が走った。
衣を深く被いた女が、闇を割って現れたと人々はいう。
名を問うても答えず、顔を仰げば影に沈む。
ただひとこと、低く声を落として告げた。
「柳の皮を削り、煎じて、蜂の蜜に混ぜなさい。匙二杯ほど飲ませれば、しばしの間は苦しみ和らぎましょう。」
言い置いたかと思えば、女の影は灯火の外へ溶けるように消えた。
呼び止める声もむなしく、跡にはただ寒気が残るばかりであった。
邸の者は急ぎ庭の柳を削り、湯を沸かし、蜜をひと匙ふた匙と混ぜて口に運んだ。
清盛の唇は乾き、舌は荒れていたが、渇いた喉が薬湯に触れるたび、喉仏が大きく上下し、胸がひとつ鳴った。
ひと口ごとに顔の歪みがゆるみ、長い呼気がもれた。
呻きはやがて静まり、荒かった脈もすこしずつ間をとり戻した。
熱そのものは退かずとも、廊に満ちていた張り詰めた空気は、ひとときやわらいだ。
「効き目がある。」
侍医のひとことに、若党は泣き笑いで頷いた。
けれど、あの女が何者であったかを答えられる者は一人もいない。
残ったのは、蜂蜜の甘さを帯びた湯気と、寝所を包む束の間の安らぎだけであった。
その夜更け、清盛は浅い眠りに落ちた。
熱はなお身を灼き、呼吸は細く長く、夢と現の境がほどける。
寝所の帳は遠い水面のように揺れ、灯心は星のように瞬いた。
耳の奥では絶えず潮のような耳鳴りが満ち引きし、指先は痺れ、布は汗で肌に貼りついた。
いつの間にか、障子の向こうに白い気配が立っていた。
衣を深く被いた女である。
足音もなく、影も薄く、ただ静かにそこに在る。
清盛は身を起こそうとして起こせず、声を発そうとして発せず、ただその気配を見た。
女は、ひとすじの風のような声で言う。
「苦しかろう。
私一人の力では、根の病を断つことはできませぬ。
されど、しばしのあいだ気は鎮まりましょう。
――意識が戻ったなら、そのうちに言葉を残しなさい。
お前の言葉で救われる者がいる。」
それだけであった。
叱るでもなく、慰めるでもなく、ただ事のほか静かな命。
清盛は、胸の底に石が落ちるような音を聴いた気がした。
唇がかすかに動く。
「……やくし……」
――病を救う仏の名が、熱に焼かれた意識の底から零れる。
(…………違えたか…………)
誰に聞かせるでもない思いが、熱の闇にしずかに沈んだ。
女の姿は、来たときのように音もなく遠のき、灯の輪の外へ淡くほどけた。
帳の揺れが止み、夜気がひときわ冷たく、明け方の鳥の声が遠くで鳴く。
やがて清盛は短い目覚めを得る。
額の汗は乾き、痛みは薄皮ほど退き、呼吸はわずかに深くなっていた。
筆と紙が枕辺に運ばれる。
誰に命じるともなく、誰かが気づいてそうしたのだ。
彼は震える指で筆を執る。
長くは書けぬと知りながら、短くも書き過ぎるまいと覚悟して、ゆっくりと墨を置く。
言葉は多くを要らぬ。
たしかに残るのは、声そのものではない――言の葉である。
このとき遺された幾行かは、のちの人々の胸に長く留まり、
戦の季節を越え、栄枯のあわいを渡り、
ある者の行いを正し、ある者の迷いを止め、
やがて物語の冒頭に落ちる鐘の音のように、世に響くことになる。
清盛は、震える指で筆をとった。
墨は重く、腕はすぐに熱に負ける。それでも一息ごとに短く区切って、必要なだけを置いていく。冗語はいらない。
いま残すべきは、わずかな言葉だけだ。
我は欲に焼かれたり。
人を想ふ道、忘るるべからず。
──言葉は残れど、人は残らず。
筆先が紙から離れ、静けさが戻る。
文は短い。
だが、この身に許されたのはここまでだった。清盛は細く息を吐き、筆を横に置く。
枕辺の者がそっと紙を取り、乾きを待つあいだ、灯心の火が小さく揺れた。
紙は薄く反り、墨は繊維に沿ってわずかに滲んだ。
花押を引くほどの力は残っていない。
代わりに小さな点がひとつ、最後の行の余白に落ちている。
それでよい、と清盛は目を閉じる。
言葉はすでに紙の上にある。人の身はやがて薄れていくとしても、この三行は、しばし世を渡るだろう。
帳の裾が夜気にふるえ、遠くで鶏が時を告げる。
寝所には、蜂蜜の甘さを含んだ薬湯の匂いがまだ淡く残っていた。
清盛の呼吸は、時を重ねて次第に細く、浅くなっていった。
炎のごとき熱はなお身を灼きながらも、その勢いはしだいに衰え、
やがて燈火の油が尽きるように、音もなく燃えさしとなった。
その直前、汗の冷たさに身がひとたび震え、胸の奥で短い咳が乾いてほどけた。
祈祷の声はまだ続いていた。
しかし寝所にあった者たちは、息をひそめてその刻を知った。
夜気がひとしきり冷たく入り、帳の裾をかすかに揺らす。
団扇の骨はもう鳴らず、灯は芯だけが小さく脈を打った。
枕辺の紙には、震える筆で残された三行が、黒々と息づいている。
それはすでに清盛自身の声ではなかった。
声は絶え、人は去った。
されど、言の葉はそこにあり、灯心の影にひらめいていた。
この夜を境に、六波羅の館は静まりかえり、
京の都はひとつの時代を失ったのである。
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