サラダボウルを君に
魔女はラプンツェルの美しい髪を攫んで、左の手へぐるぐると巻きつけ、右の手に剪刀を執って、ジョキリ、ジョキリ、と切り取って、その見事な辮髪を、床の上へ切落としてしまいました。
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紫暮(しぐれ)ちゃんは、あたしの世界だった。
灰色の日本で、黄金に輝くあたしの髪は、とにかく目立つものだった。クラスの男子にはやし立てられ、隣のおばさんには噂話をされ、近所の犬に吠えられた。けれどもあたしが髪を黒染めすることも無く、麗しく伸ばし続けたのは、紫暮ちゃんの努力があったからなのである。
「陽香(ようか)、久しぶり!」
「あっ、紫暮ちゃん!」
御照紫暮(ごてる しぐれ)。10歳。つまりあたしの一つ下。
彼女は他の日本人と同じく漆黒の髪色。でも他の日本人と違うところが2つある。ひとつはあたしの髪を、誰よりも――髪の持ち主であるあたしを凌駕するほどに――まるで髪を、「あたしとは違う独立した生命体」として捉えているみたいに、金糸を梳いてくれることなのである。
もうひとつは、彼女の瞳。多くの日本人の持つダークブラウンの瞳とは打って変わって
彼女の瞳は、夜の終わりに咲く一輪のスミレのようだ。
ドレッサーの前に腰掛けて、髪を梳いてもらう。あのとき、鏡越しに見る、あの夕暮れの曖昧な紫を覗くのが、あたしは1等好きなのである。
「やぁ、ようかちゃん、元気にしているかい?」
「あ、紫暮パパ!お久しぶりです!」
彼女の父は「ガイジン」である。「ガイジン」らしく、金色の髪と、墨を一滴垂らしたミルクのような紫の瞳を持っていた。
「まぁまぁ、いらっしゃい、紫暮ちゃんのお父さん。どうしたんですか、突然。」
奥から慌ててあたしのママが出てくる。
「こんにちは、菜乃葉さん。いや、特に用事は無いんだよ。2人が元気か、様子を見に来ただけさ。」
紫暮パパは爽やかに笑った。
つられて、あたしのママもにこりと微笑む。
あたしのママは、いわゆるシングルマザーだ。世間では、子供を育てる時、二人で育てるのが一般的だけど、あたしのママは、一人であたしを育てているので、世間より偉いのだ。
「とりあえず、お茶でもどうぞ。ささ、あがってください。…ほら、紫暮ちゃんも。」
「それじゃ、お言葉に甘えて。」
紫暮パパは軽快に家に上がり込む。
紫暮ちゃんは、まだ玄関に突っ立っている。長い前髪で紫陽花色の瞳が隠れて、背中まである黒髪が彼女を庇護するように覆っていた。
「紫暮ちゃん?」
…時々、紫暮ちゃんはこうやってじっとして動かなくなる。あたしに手を引いてもらいたがる。ちょっとめんどくさいけど、そういうところが、とんでもなくかわいい。
「どうしたの、紫暮ちゃん。リビング、行こうよ!」
あたしは紫暮ちゃんの片腕に、ツタみたいに絡みついた。そしてあたしの家に引っ張りあげた。
あたしは人見知りする方だけど、あたしはあたしのことが好きな人が好きなので、紫暮ちゃん相手には少し強引に手を繋ぐのだ。
「…うん。お邪魔します。」
玄関のドアが重々しく閉まった。
「時間も遅いですし、今日はうちで夕飯でもいかがですか。ちょうど、作っていたんです。サラダボウル。」
「やったーー!紫暮ちゃん、ようかの隣に座ってよ!」
あたしと紫暮ちゃんの関係の不思議なところは、あたし達は別に近所に住んでいるわけでも、同じ習い事のライバルでも、もしくは腎臓を分け合ったドナー相手でも無い、接点のないところである。紫暮ちゃんは東京の高級住宅街に一軒家を携える、お金持ちのお家だ。紫暮ちゃんのママは紫暮ちゃんと同じウェーブのかかった黒色の髪と、高い鼻が特徴的だ。といっても、あたしは紫暮ちゃんのママに会ったことなんて1度もなくて、全部紫暮ちゃん伝いに聞いたウワサ話なんだけど。紫暮ちゃんのお母さんは生け花の先生をしていて、紫暮ちゃんもお花が大好きである。さらにさらに、紫暮ちゃんはたくさん習い事―生け花はもちろん、バレエにバイオリン、フランス語会話など、とにかくお金持ちって感じの習い事―をしていて、あたしの親友でありながら、あたしの憧れなのである。
対してあたしはママと郊外に二人暮らしで、この古城(つまり、築30年のボロボロアパート)でひっそりと生活をしている。あたしはママに全然似ていない。習い事をする余裕は無いけど、でも歌を歌うのが大好き。お母さんがお仕事でいない放課後は、いつも小鳥のように歌を歌うの。
あとお絵描きも好き!使い古した靴下の穴を縫うのも好きだし、お菓子作りも大好きよ!
だから、とっても不思議。どうしてあたしたちは、当たり前みたいに食卓を囲んで笑っているのだろう。
「つまり、普通に生きていれば関わるはずのなかった、運命の二人なんだ」…って、紫暮パパは頬を赤らめながら言っていた。あたしも「運命」なんて言われてすごく恥ずかしかったけど、なにも紫暮パパも恥ずかしがることなんてないのに。
そんな魔法みたいな言葉の本当の意味を、あたしは今夜知ることになる。
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バスタオルがないと気がついたのは、あたしがお風呂から上がった直後であった。
結局紫暮ちゃんと紫暮パパはうちに泊まることになったのだ。あたしは紫暮ちゃんと同じお布団で眠れることが嬉しくて飛び跳ねていたけれど、でも今は、バスタオルでまずは体を拭かないと!あたしの髪は腰よりも長くで、量もすごいのだから、早く乾かさないと紫暮ちゃんと夜更かしできない。
バスタオルを手に入れて、それから紫暮ちゃんに乾かしてもらおう。長い長い髪だから、うんと時間がかかるだろう。ドライヤーの音で声が通らないから、心地の良い、無言の時間を過ごすのだろう。
あたしの髪に指を通す紫暮ちゃんの、柔らかな手――
また、あの手で触れて欲しい。
きっと和室でママが洗濯物を畳んでいるはず。あたしはベチャベチャのまま、和室の扉に手をかけた。
「ママ?バスタオル、なくなっちゃっ――」
……そこには、ママと紫暮パパがいた。2人は体をうんと密着させていた。今のあたしみたいに、裸のままで。
声を出すのがためらわれるほど、湿気が音を吸っている。沈黙が壁に張りつき、じわじわと服の中まで染みてくる。和室の空気はベチャベチャしていて、あたしはすぐに気持ちが悪くなってリビングに向かって――紫暮ちゃんのいるところへ――駆け出していた。
どうしよう、どうしようどうしよう。あそこには、ママみたいな別の生き物がいた。ママみたいな姿形はしているけど、見たこともない歪んだ、茹だったような表情をしていた。
おえって、なりそう。
あたしは裸のまま紫暮ちゃんに飛び込んだ。
「どうしよう!?和室にママみたいな生き物がいる!」
「…そう。それはようかちゃんのママで間違いないわ。」
紫暮ちゃんは、妙にどっしりと落ち着いていた。その空気に押されて、あたしはあれがママだと認識した。
そしたら次に疑問が湧いた。あれがあたしのママだとして、ママと一緒にいた人は本当に紫暮ちゃんのパパなのだろうか。
「ねえ、紫暮ちゃん、どうして紫暮ちゃんのパパが、あたしのママと裸でくっついているんだろう。紫暮ちゃんのパパには、東京の紫暮ちゃんのおうちに、紫暮ちゃんのママがいるのに!」
「誰のせいだと思っているの?!」と紫暮ちゃんが急に高い声を立てた。
「私はあなたのために気付かないふりをして、優しい嘘を吐いていたつもりだったのに、あなたは私を傷つけるのね!」
こう言って、紫暮は陽香の美しい髪を攫んで、左の手へぐるぐると巻きつけ、右の手でハサミを執って、ジョキリ、ジョキリ、と切り取って、その見事な金髪を、床の上へ切り落とした。
そうしておいて、何の容赦もなく、この憐れな少女を、まるで砂漠の真ん中へ連れて行くかのように、残酷な事実を言い放った。
「私のパパはね、あなたのパパでもあるの!!あなたのママと私のパパはずっと不倫していて、あなたはあたしの腹違いの姉なの!」
「私、あなたの馬鹿みたいな金髪がだいっきらい。あなたじゃなくてあたしが受け継いでいたら、あたしのパパとママは、何一つ疑うことなく仲良しでいられたのに。あんたが…あんたが金髪だから。ずっと忌々しかった。」
紫暮ちゃんの手から、あんなにも美しかったはずの髪が落ちて、散らばっていく。
床に落ちた髪の毛って、なんでこんなに気持ち悪いんだろ。
裸で、知らない顔してたママも、知らない顔であたし達に会いに来てたパパも…あたしも。
気持ち悪い。この世界で美しいのは紫暮ちゃんだけだったんだ。
その紫暮ちゃんを、たった今、あたしが壊した。
あたしの瞳は、まるでいばらの棘に刺されたみたいに熱くなって、涙ですぐに視界が見えなくなった。
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あれから10年。あたしは短く整えたダークブラウンの髪を耳にかけて、愛しの彼と待ち合わせをしていた。
あの事件の後。あたしは短く粗雑に切られた金髪をすぐに黒く染めた。他の日本人と同じようになった。髪が肩より長くなりそうになれば、すぐ切るように務めた。短い方が、さっぱりするから。
それでも、心まではすぐに染まらなかった。布団の中に入って目を閉じると、いつでもあの、スミレのような鮮烈な紫がまぶたの裏いっぱいに広がって、あたしはじたばた悶えて苦しんだ。
それから、あたしのママは、魔女のような人だった。
紫暮ちゃんパパが家に来なくなってから、代わる代わる新しい「パパ」が来た。そして次々に「パパ」は家を出ていった。その度にママは酔っ払いながらあたしに泣きついて、あたしは頭の毛全てがママの全体重で引っ張られている感覚がした。
そんなあたしの孤独の塔にも、ついに王子様が現れる。
あたしは彼に出会った18歳の春―その時私はアルバイトで勤めていたライン工場で、正社員として働き始めたばかりだった――、恋愛を忌避していたあたしが、男の人に初めてときめいたのだ。それと同時にどこか懐かしい輝きを秘めていた。
優しくて、甘くて、あたしのショートヘアを可愛いと撫でてくれる。彼はあたしが好きだった。あたしも彼が好きになった。
秋の冷たい風が吹き抜けて、紅葉がひらりと地面に落ちる。「ぴこん」とスマホから軽快な音が鳴った。
彼からのメッセージかと思い、スマホを開くと、そこには匿名のアカウントからのメッセージがあった。不審に思いながらも、メッセージを開く。
「なに、これ…」
そこには、愛しの彼の不貞と思われる写真が添付されていた。
手がべちゃべちゃと湿る。ズルリとスマホが滑り落ちて、画面の割れる予感がした。
あたしは駆け出した。誰もここにはいないのに。
小さくなった公園の横を走った。短くなった横断歩道を、タカタカ点滅する信号機見つめながら走った。あまりにも短いものだから、あたしが走り終わったあとも、しばらく信号機はタカタカ点滅していた。
走って、走って、走り疲れて。口から鉄の味がして、空から雨の匂いがしたから、ついにあたしは地面にへたりこんだ。
気持ち悪い。吐く、吐きそう。またあの日と同じ。違うのはここにはあの紫がない。
紫が、狂おしいほど懐かしい。
会いたい、あの子に。
ふと、目の前に、見覚えのある色がちらついた。
それは夕暮れの曖昧な紫だった。
「 ……うそ、でしょ」
顔を上げると、そこに――
紫暮ちゃんが立っていた。あの日と同じ、重い前髪の下で、紫色の瞳が透ける。
「こんな所で、醜い娘が走り回っていると思ったら…久しいね、陽香。」
彼女はうっそりと笑って座り込むあたしに覆いかぶさった。
「あなたを秘密の塔に匿いに来たの。」
いつの間にか降り始めた雨が勢いを増して、あたしたちを2人だけの塔に閉じ込めた。
それは、甘くて優しい絶望だった。
あたしはもうどうでも良くて、いまはただ、髪を伸ばそうと思った。
また、紫暮ちゃんに梳いてほしいから。
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「いいかい、これは秘密にしなければならないよ。今から会う、「塔堂陽香ちゃん」っていう女の子は、実は君のお姉さんなんだ。1つ違いだけどね。」
お父さんがあたしに降り注ぐ愛は、サラダボウルのサニーレタスのように軽薄で、その全ての原因はあの女の金色の髪だとおおよそ見当は付いていた。
「はじめまちて。あたしは、ようかちゃん!しぐれちゃん、よろしくね!」
何も知らない阿呆な頭を覆い隠すように輝く金髪が揺れる。ちまちまとした両手があたしに向かってきて、抱きしめられて、金色の髪があたしの肩にかかった瞬間。
彼女のことを恐ろしいほど憎いと思った。
と同時に、信じられないほど幸せだった。
父は母にたくさんの嘘をつく。きっと私にも、たくさんの嘘をついているのだろう。
父の憂いを帯びた瞳によって、母が侮られる度に、私も見限られたような気持ちになった。
私は自分自身を価値ある存在だと信じたかった。彼女との奇妙で、これ以上ないほど吐き気のする繋がりが、私のアイデンティティを確立した。
金色のその髪が柔らかくふわふわと靡くのを見つめながら、それを手に入れることは一生ないのだろうと感じた。
「なにがあっても、一生離さないから。」
「???なんて、いったの?」
絶望の塔が建つ地響きのような音を遠くに聴きながら、彼女の垂らす、金色の糸に全身で縋りついた。
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