第14話 灰燼

 とある雑居ビル、屋上にある喫煙所。他に人は誰もいない。ただ一人、紅花だけが曇天の夜空を眺めながら煙草を吹かしていた。彼女の生活は優との夜の後、大きく変わったわけではなかった。仕事はこなしていた。表面上は軽薄で、知的な彼女も変わらない。ただ、遊びの頻度だけは減っていた。そこに何かの意味を探し求めることは、もう意味を持たなかった。代わりに、煙草を吸う本数が増えた。それもコンビニではなく、こうした寂れた喫煙所で。彼女は街を歩きながら、その寂れた匂いを嗅ぎ取ると、吸い込まれるようにして喫煙所へ向かうようになった。

 曇天の夜空は何ものも映さない。星も月も、雲の裏に隠されたまま、光っているかどうかすら定かではない。曇り空に煙草の煙が重なり、揺らいで、消えていく。

「つまらな」

 独り言を落とした。それだけだった。

 二本目の煙草を吸い終え、三本目を取り出そうとした時、屋上へと登る足音が響いてきた。こん、こん、とノックのように異様に規則的に、それは近づいてくる。紅花は、その足音に何かを嗅ぎ取った。日常の狭間に住まう、あの何者かの痕跡を。

 

 神崎玲は、喫煙所のある屋上を目指して足を進めていた。煙草は職業柄も、自身の興味関心からも以前は吸わなかった。だが、今は違った。とある日にふと買った煙草のあの『どうしようもなさ』が、彼女には居心地が良かった。

 屋上へと着くと、視線の先に先客がいた。一目でわかる整った容姿に、軽くウェーブするセミロングの茶髪。その姿に神崎は、言葉にしようのない空虚を感じた。

 

 紅花は屋上へ、そして喫煙所へ来た女を横目でチラリと見た。一瞬で何かがわかった。生きている人間の目ではなかった。それは、あの夜ホテルで見た紅花の、鏡に映った笑みの内側にあった目と同じだった。スラリとした長身と小綺麗なオフィスカジュアル。だがそれとは不釣り合いに、左手の甲に無数の引っ掻き傷が見える。

「……」

 女は煙草に火をつけた。紅花もそれに倣った。お互いの吸い込み、吐いた煙が混ざる。曇天は、さらに深みを増した。闇と混ざった煙幕は、どろどろした渦巻きのように、空を覆っている。雨が降るのも、面白い、と紅花は思っていた。傘は持っていなかった。

「なぁ、君」

 横で煙草を吹かす女が、言葉を発した。それは確かに言葉だった。だが、どこまでも空虚だった。紅花は、それだけで充分この女のことを、神崎玲の事を知った。彼女は既に壊れている、それも自らと同じほどに。

「な~に、お姉さん」

 軽薄に、応じる。相手も紅花が壊れている事を全てわかっていると、どこかで既に知りながら。

「いい空、だ」

「……そ~だね」

 会話が途切れる。煙草の煙がまた周囲を包む。曇天は晴れない。月は見えない。星はない。見えないものは、存在しないのだろうか。…見えないからこそ、存在してしまうのではなかろうか。それを人が、見ようとするから、こそ。

「お姉さん。お姉さんも、もう終わってんでしょ?」

 終わってる。そんな言葉で自分たちを片付けるには充分だった。それ以上の何かは、いらなかった。神崎の表情は何一つ変わらない。紅花はわざとらしく笑った。

「ねー。わかってるじゃん。もういいんだってさー。私のことも、わかるでしょ」

「死人、君もだ」

「あはっ…いいね、死人。そんな感じ」

 呼吸するように共鳴する。崩壊を迎えた二人の、奥底の狂気こそが唯一の共鳴を呼ぶ。それは共感ではない。二人は互いの何も知らない。だが、ただ、全てを知っている。満たされた器と、空っぽの器は、対極にあるのではない。むしろそれは、同一に限りなく近いものだ。反響するように、共鳴する。刹那の楽想。

「またいつか会えるかな~お姉さん」

 煙草を揉み消しながら、紅花は分かりきった問いを投げた。

「二度と、交わらない。ただ流れてゆくだけ」

 その返答に、紅花は満足した。口角が上がるのがわかった。彼女はそれを抑えることもしない。笑顔ではない。これは、獰猛な、何者かだ。

「じゃあね。ばいばい、お姉さん」

 紅花はそう言葉を残すと、笑みを貼り付けたまま、喫煙所を後にした。


 神崎は先程まで共に煙草を吸っていた女…戸隠紅花のことを考えた。狂気。それは千秋のものに似ていた。だが、決定的に異なっていた。千秋は純粋無垢な無邪気な狂気だ。紅花は違う。穢れ切った人間の、人間らしい、人間のための狂気だ。…

 神崎は、千秋との公園での対話の後、言葉を取り戻した。だが、それは以前の言葉とは違った。神崎の、知らない言語の群れだった。それは神崎に幾許かの力を与えたには違いない。たとえ、そこに意味はなくとも。

「空、巡る血、暗澹、芳醇な、柘榴」

 ……………

 そして喫煙所には、吸い殻だけが残された。




 私は、全てを見届けた。

 その崩壊を、美しさを、狂気を。何もかもを。

 全てを見届けた。

 では、『彼女』と出逢おう。

 私の最後の、成すべき事のために。

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