第13話 断絶

 夕暮れの少し前、まだ空は紅に染まり切ってはいない。確かな夕陽の存在を予感させながらも、それはまだ綻んではいない。

 神崎玲は、ただそこにいた。

 味気のないベンチ。人のいない公園。鳥の鳴く声。風の音。何かを言葉にしようとした。言葉は何一つ、出てこなかった。神崎はベンチに座りながら、目を閉じる。何も見えない暗闇も、何一つ言葉を運んではこない。全て、壊れてしまった。

「死んだ梟」

 何故、そう口に出たのかはわからない。思考と直結しない言葉は、唐突に溢れた。神崎はそれを解することさえできなかった。他者の言葉を、何度も解読し、分析し続けてきた彼女は、自らにそれを向けることさえ既にできなかった。

「~」

 それは音だ。言語ではない。口から漏れ出したものは、音だった。その意味は誰も知らない。


「先生、何をしているの?」

 耳に届いた声に、神崎の心は揺れ動いた。視線の先にいるのは、佐上千秋。かつて、クライアントだった少女。そして今は。

「ここの夕陽、綺麗だもの。先生も見にきたのかしら」

 千秋は微笑みながら、神崎の隣に腰掛ける。その様子は、端正に整っていて上品だ。何一つ破綻のない、完全な破綻。血と白い美しい肌に彩られた狂気、人を超えた、人だったもの。

「失くしてしまったのね。先生。先生は、もう裂けてしまったもの」

 千秋は神崎の胸、心臓のあたりを指でなぞった。神崎はそれを視線で追う。なぞった指を、悪戯でもする子どものような笑みと共に、千秋は舐めた。

「おいしい。先生は、すごくおいしくなった。私、嬉しいの。先生とこうして出会えて。先生のおかげなのよ」

「…夕陽が、空を、裂く」

 千秋は微笑んだ。慈しむように、深く、深く、あまりにも深く、存在を愛するように。そこに嘘は一つもない。ただ、『佐上千秋』が、ある。

「綺麗ね。綺麗な言葉よ、先生。今まで、先生が持っていなかったもの。違うわ、ずっと隠し持っていたもの」

 空は少しずつ夕陽模様に変わり始めた。青に、紅が混ざる。美しいと神崎は思った。それは言語ではなかった。感覚だった。何故なら、説明ができなかったから。

「夕陽は好き。紅くて、柘榴みたいなのに、もっと血に近いでしょう。空の中身なのよ、きっと」

「空の、中身」

「そう。私たちの中身と同じね?」

 諭すように、静かに美しい声が紡がれていく。夕陽に照らされる千秋は、美しい少女に違いなかった。神崎は、それに酩酊を覚える。神の前で、赤葡萄酒を煽ったかのように。

「ねぇ、先生。もうすぐ真っ赤になるわ。空が、青から真っ赤に変わるの。だからね。先生も、もっと、紅くならなくちゃ。ね?」

 千秋の手が、神崎の胸元のポケットに伸ばされた。一瞬撫でるような仕草をした後、そのポケットの中にあるペンを千秋は手に取る。ゆっくりと自らの胸の前に引き寄せ、千秋はそれを眺めた。

「ペン。書くもの。言葉を紡ぐもの。先生?貴女が、失くした全てはここにあるわ」

 くるくる。器用にペンを回しながら、千秋は微笑む。無邪気な子ども、穢れを知らない少女、暇を持て余す女性…あらゆる肖像が、千秋の上に被さっては消える。それすら弄ぶように、彼女は笑った。

「まだ、書けるの?書くの?先生」

「…あ…私は…」

 私。という言葉を発したことに、神崎自身が驚いていた。それを自分の声で聞くことは、いつぶりだったろう?久しく聞いていない気がした。だがその響きは、以前とは違っていた。果てしなく空虚で、音以外の何者でもない、『私』だった。

「先生。先生は、もうわかっているの。だから、返すわね。この、ペン」

 千秋は、弄んでいたペンを神崎の手に握らせた。神崎は何を思うわけでもなく、手の中のそれを見る。ペン。書くもの。かつての自身の写鏡。象徴。崩壊。

 夕陽は全盛を極めた。空は、真っ赤に染まる。血を流しているかのように、紅く、紅く。神崎はそれを一度見た。美しいと思った。あまりにも美しいと。

「…先生、私、貴女を愛しているわ。貴女が、もう壊れてしまったから」

 千秋が笑う。その表情は、夕陽に照らされて紅く、美しい。まるで絵画のような少女は、笑っている。神崎は、喜びを、覚えた。


 ぱきり。


 静かな公園に、一つの崩壊が響いた。ペンの折れる音。神崎は、手のひらの中でペンを握り締め、折った。力任せのそれは、神崎の手に傷をつけた。血が滲んでいる。じわりと、溢れ出すように、それは少しずつ広がった。

「先生。ねぇ先生。愛しているわ。貴女は、こんなにも美しくなったんですもの」

 千秋が神崎の手を取る。ゆるやかに、確実に。上品に、食事の前の、所作のように。

 神崎の人差し指に出来た傷から流れた血が、千秋の白い肌をほんの少し紅く染めた。千秋は、迷うことなく神崎の指に口をつけた。チクリとした痛みと、舌先で傷をなぞられる感触。それすらも、慈しみに溢れていた。

「おいしい。先生の柘榴、おいしいわ。でも、あまり体を傷つけてはいけないわ。先生は生きているから、おいしくて、こんなに美しいの」

 千秋はそう言うと、聖母のようにもう一度神崎の指に唇を触れさせた。それは捕食というより、接吻だった。神崎は、それに快感を覚えた。言葉にはならない、確かな快楽を。

「千秋、貴女が一番、綺麗よ」

 やっとついてでた言葉は、濃密に、狂っていた。



 私は佐上千秋を愛している。

 何者よりも愛している。そう、愛している。

 夕陽はやがて、全てを捕食する宵闇に変わる。

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