第7話 救済
神崎玲は仕事を終え、足早に帰宅した。佐上千秋との初のカウンセリングは、大きな破綻はなく終えた。…と判断してもいいだろう。そう考えつつも、彼女の心と脳は確かな違和感を覚えていた。
考える必要があった。その違和感を。それはカウンセラーとして、佐上千秋を救うものとして、そして…神崎玲という人間として。
珈琲を淹れると、病院から持ち帰ってきたカルテとカウンセリング中に自らが書いたメモを机に広げる。佐上千秋に関する基礎的な情報は全て脳裏に収めてあった。問題となるのは、メモだ。
『クライアントはカウンセリングの場において非常に落ち着きがある。上品な口調と所作。育ちの良さを感じさせる。当然のように自らのうちに、他者のうちに柘榴があると語る。これは是正すべき明確で病的な認知の歪みである。自傷行為による傷跡の経過は良いが、酷くグロテスクな、リストカットと言うよりも捕食のそれに近い。カニバリズムの欲求は自他の内側にある柘榴への憧憬から現れていると推察する。洞察力の強さ、感性の鋭さは常人の比ではない。怪物。否、純粋無垢な狂気の顕然。……不安も食べて仕舞えば無くなる』
怪物。と記されたあたりから筆跡に乱れがある。佐上千秋当人にも指摘された、神崎自身の恐怖の現れとしてのそれは、微細ながらも彼女にとって顕著だった。メモの最後の一文『不安も食べて仕舞えば無くなる』は赤字で書かれている。彼女は記憶を反芻し、ペンの震え、そして赤いペンに持ち替えたその瞬間を思い返す。
「…私は、怖かった。初めてだ」
声は震えていた。彼女は、何人ものクライアントと向き合ってきた。その中には佐上千秋の実質的、外見的な症状とは比較にならないほど病理の深いクライアントもいた。だが、そこに恐怖を覚えたことは一度たりともなかった。理解が及んだからだ。それは知識として、経験として、人間として。病理に至る過程、病として現れる症状、その結果としての目の前のクライアント。その全てに説明がついた。
佐上千秋は違う。千秋には、理屈と経験による説明が適用できない。
神崎は無意識に頭を抱えた。佐上千秋を救うには、どうすればいい?何から、どう手をつければいい?あれほど落ち着き払い、品性すら感じさせる破綻のなさから、救うべき破綻の根源を見つけるには、どうすればいい?…珈琲を荒っぽく煽った彼女のその所作は、普段の冷静さを欠いていた。
「……純粋無垢な狂気…保たれる安定……そもそも彼女は、救われようとしているのか…?」
その独り言は、神崎の胸を鋭く突き刺した。彼女が様々なクライアント…特に病状の重いクライアントを担当する度、一度は突き当たる疑問だった。過度の狂気は、本人にとっての安寧なのかもしれない。理性や理屈では否定しなければならない。だが、実際のクライアントたちを見ていると…ただ一方的に否定はできない。それでも、彼女はクライアントを救うために、その病と向き合い続けてきた。
救うために?
『本当は救っているのかも、わからないのに?』
がしゃん。最後の問いが首をもたげた瞬間、彼女は机の上にあった珈琲を薙ぎ払った。カップの割れる音がした。その音に、我に帰る。薙ぎ払ったコーヒーカップは部屋の隅で割れた。それを確認するまでもない。
だが、今はそんなことなどどうでもいい。この問いは禁忌だ。触れてはならない。触れてはならないのだ。私はクライアントを救っている。そのための能力も知識も意思もある。間違いなく救っている。実績もある。そうだ。何も不安になることはない。冷静になれ、いつも通りの自分を取り戻せ。私はクライアントを救うことで世界の役に立ってきた。それは偽善ではない。そうしたかったからだ。間違いではない。佐上千秋を救おうとすることは職務としても大人の義務としても正しい。間違いではない。正しい。私は正常だ。あの純粋無垢な狂気を救済する。そう、救済せねばならない。他のクライアントと同じように救済せねば。矯正せねば。思考が加速する。治せ。治せ、それが私の存在意義だ。私は正しく導かねばならない。助けなければならない。助けなければ。
「うぐっ……ん…?いた…い…?」
神崎は左腕の痛みを知覚した。洪水のような思考の海から一瞬の脱却を経た彼女は、自らの左腕を見る。そこには掻きむしられ、幾つもの線に血が滲んでいる自らの皮膚があった。
「ぁ……」
言葉が消えた。
そう、神崎玲から、言葉が、消えた。
神崎玲は崩壊する。
私は断言しよう。それは予想ではなく、予定調和だ。誰も、『彼女』の指先には抗えない。
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