第8話 捕食
カウンセリングルームは鋭利な緊張と究極の安寧、二つの空気に圧迫されていた。神崎玲はまだ、自らを保っていた。戦う意志を曲げてはいなかった。佐上千秋は、既に堕天した。その先にあるのは、彼女にとってあらゆる楽園であった。
「千秋ちゃん、何か今日の貴女はすごくリラックスしている…前もそうだったけど、さらに。そんな風に見える。何か変わったことがあった?」
神崎は問う。その声音は内面の極度の緊張とは裏腹に、柔らかい。それは彼女がプロとして身につけた技術の積み重ねを物語っていた。千秋はその問いを受け、微かに微笑んだ表情を変えることもなく、ゆるやかに答える。
「神崎先生、私、もう自分も誰も傷つけることはないわ。絶対にないの。すごいでしょう」
子どもが母親に褒めてもらうために自らを誇るように、無邪気に語る。内容さえ知らなければ、可愛らしいと表現しても良いだろう。だが、神崎にとってそれは、ただ喜ばしいと受け止めることはできなかった。クライアントの急激な変化は、必ずその裏に重大な理由を隠している。赤文字でメモを綴っていく…。
「それは素晴らしいことよ。貴女自身の苦しみが減ることは、とても喜ばしいこと。よければ、何故そう変化したのか、教えてくれる?」
神崎は、慎重に、丁寧に、言葉を選んでいく。それは知識の中から引き出された彼女の抵抗に他ならない。クライアントの病魔への、そして彼女自身を守るための。千秋は微笑んでいる。そして、ゆらり、と右手の指を掲げた。
「柘榴を見つけたの。それはどこにでもあったのよ。探す必要なんてなかったことに、やっと気がついたの。ね、神崎先生、こんな素敵なことはないでしょう?」
千秋の指先が、空を撫でる。まるで空間を裂くように、ゆっくりと、しかし確実に線を描いていく。神崎には、その様がまるで指揮者のそれに酷似しているように見えた。
「そうなのね。君が望んでいたものは、探していたものはどこにでもある…その気づきはきっと君を苦しみから助ける大きな一歩だ」
『苦しみから助ける』。その神崎の言葉に、千秋は反応を示した。指先の指揮が止まる。表情が、ぽかりと穴が開いたように、空虚になる。神崎は、その瞬間に察知した。触れてはならぬものに、触れてしまったと。
「苦しみ?助ける?……私は最初から、苦しんでなどいなかったわ。神崎先生は、きっと何か勘違いをしていらっしゃるの。貴女はすっごく頭が良くて、優しくて、『誰かを助けよう』としている、素晴らしい人。でもね。神崎先生」
小首を傾げながら、紡がれる言葉に若干の速度と、狂気が乗る。神崎はまた自らのペン先の震えを感じた。それは恐怖に違いない。神崎は、目の前にいる少女が…『得体の知れない何か』に思えた。
「そう、でもね、神崎先生。私は最初から救われているの。誰よりも救われている。だって世界はこんなにも、美しさに溢れているのですもの。だから、もし、救いがあるのなら、それは私が齎すの」
赤文字のメモは加速する。神崎は千秋の、まるで演説のような言葉から目と耳を離すことができない。神崎は、その様子を『美しい』と思ってしまったことを恐怖した。彼女は自らに言い聞かせる。心を宥めるように、自分はクライアントを救わねばならない、佐上千秋は異常だ、それを治さねばならない、私にはそれができる…はずだ。
「…….千秋ちゃん、君の齎す救いとは、一体なんなんだい?」
触れてはならぬものは世界に溢れている。人は神に触れれば気が触れる。それは善悪の裁量を持たない。ただ、器が違うという一つの言葉で、全てが覆される。知識、経験、意識、思考、全てはその一点によって破壊される。超越とは、破壊に他ならない。
「あぁ、神崎先生。ありがとう、ありがとう!貴女はとても優しくて、頭が良くて、そして、綺麗で、美味しい柘榴を抱えているの。ねぇ神崎先生?血の匂いが、するわ」
ゾクリ。神崎の背筋が凍る。思考が停止する。無意識に、昨夜掻きむしった左腕を右腕で抑えてしまった。それは致命的な動きだった。神崎玲としても、佐上千秋としても。千秋は、笑っている。微笑みではない。それは、凶暴な、笑みだ。
「神崎先生。貴女も、裂けたの。熟れた柘榴は、裂けてしまうの。裂けたのでしょう?貴女はそれを自分で知っているのでしょう?だから私に、頂戴?」
猛毒のような、甘すぎる声音は、もはや少女のそれではない。妖艶とさえ表現しても良い、恍惚を孕んだ声は、思考を超えて神崎に染み込む。神崎は、無意識にペンを落としていた。
「私は……私は君を助ける人間だ…千秋ちゃん、まだ君は…」
「神崎先生。もういいの。もう苦しまなくて良いの。ねぇ?」
千秋はゆっくりと椅子を立つと、神崎に近づいた。神崎はその顔を見上げる。聖母のような笑み。神崎の脳は、そう認識した。クライアントとカウンセラーの肉体的接触は、禁じられている。そんな思考が一瞬神崎の脳裏を掠めた。しかしそれは、あまりにもこの少女を前には、無力だった。
佐上千秋は神崎玲を優しく、抱きしめた。
「あ……………ぁ……あぁ……」
「神崎先生、大丈夫。何も怖くない。何も怖くないの。貴女は、こんなにも、美しい」
崩壊。神崎は自らが涙を流していることに気づいた。千秋の柔らかな腕や、薄くも確かな温かさを持つ胸や、微かに香る少女らしい香りと共に、神崎は完全に崩壊する自らを知覚した。
「だから、私の中においで。神崎先生?」
それは宣告だった。問いかけですらなかった。神崎の積み上げた知性たちは、最後に言葉を残した。
『救済』
神崎玲は完全に崩壊した。佐上千秋は完全な堕天を終え、世界で最も完全な生命となった。
私はそれを、祝福しよう。あまりにも美しい、それを。
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