第2話 紅い少女
少女にとって柘榴は不思議な果実だった。不気味にすら思えた。庭にあるそれは、丸々と太ったかと思えば自然と地に堕ち、真っ赤な内側を晒して、グロテスクに腐っていく。少女は何度もその光景を見ていた。母が作ってくれた柘榴のジュースは、甘酸っぱくて美味しかった。だから少女は、この不気味な果実を、直接食べたいと思った。
精一杯手を伸ばし、大きく実った柘榴を手に取った少女は、その裂け目にルビーを見た。赤赤と鈍く輝く果肉は、美しいに違いなかった。爪をかければ、ポロリポロリと一つずつ落ちていく。それを掌に集めながら、少女は高揚感を覚えた。全ての種子を取り終えるまで、そう多くの時間はかからなかった。左手の掌には、紅い海が広がっていた。それは美しかった。宝石のように輝く赤に、少女は目を奪われた。『種も食べられるのよ』と微笑んだ母の顔が脳裏に浮かんだ。
左手の紅い海を、少女は一息に口へと放り込んだ。プチプチと弾けるような感触と、種子を噛み潰す感触。そして口内を支配するような甘酸っぱい味。美味しかった。美しいものは、それのみならずたまらなく美味しかった。咀嚼を終え、爽やかな後味を楽しむ間もなく、少女は次の柘榴へと手を伸ばした。…
時が経った。少女は、女性との中間にいた。それは青春や若さとも言える期間なのかもしれなかった。柘榴は彼女にとって、特別な食べ物となっていた。旬の季節が来れば、幾分か伸びた背を使って柘榴を取る。そして昔と同じようにポロポロと種子を落として、掌いっぱいに広がった紅い海を食す。それは彼女の大きな楽しみだった。一抹の懐かしさと共に、甘酸っぱい味が口内に広がるのは、彼女にとって大切な希望だった。
「千秋は本当に柘榴が好きね。きっとどんどん美人になるわよ」
柘榴を頬張る彼女を見て、母がそう微笑んだ。柘榴は、美容にも良いと知ったのは最近のことだった。大して興味はなかった。だが、美しさに憧れがないと言えばそれは嘘になるのかもしれなかった。彼女は友人たちが化粧や服装について楽しそうに語っている姿を思い浮かべた。友人たちほどそれ自体に興味は持たなかった彼女だが、その会話は確かに楽しいものだった。
「そうだといいけれど。でも食べ過ぎるのも良くないのかしら?」
彼女の問いに、確かに千秋ほど柘榴が好きな人は見たことがないわ、と母は笑った。彼女も母の朗らかな笑みにつられて、笑った。
「でも、千秋知ってる?柘榴は人間の肉の味に似ている、って昔から言うのよ。千秋はもしかしたら…なんてね」
母が笑いながら口にした冗談に、彼女の脳は凍りついた。たかが言い伝え、たかが冗談、そんなはずもない。しかし、母の冗談に合わせて笑った彼女の心のうちは、大きく揺れ動いていた。
柘榴は、熟れれば、自ら堕ちる。
何気ない日常の変化は、すぐに訪れた。友人との会話の中に、街ゆく人々に、自らの裸体に。白い肌の下に広がる柘榴の実を、彼女は幻視する。切り開いてそれを貪ることができたら、どれほど満たされるだろう?そんな思考が首をもたげる度に、彼女の自制心と自己嫌悪は激しく抵抗した。この欲求は彼女にとって間違っているに違いなかった。馬鹿げているに違いなかった。しかし、その欲求は止むことを知らずに、彼女の皮膚の下を這い回った。
何処もかしこも、白い肌も他の色も、その内側に柘榴の実を隠している。芳醇で美しい、甘酸っぱいであろうそれは、彼女に背徳的な美と自己否定の渦を齎した。談笑のうち、友人の太ももに裂け目を幻視する。目を逸らす。街ですれ違う人々の顔に、その張り詰めた頬に、あの掌に広がる紅い海を見る。また、目を逸らす。…
夜は、欲求との格闘の時間だった。愛する母でさえ、その皮膚の下を幻視せざるを得なかった。彼女の平静は驚くべき力で維持されたが、その心は次第に蝕まれていった。
裂ける様を見たい。その下に広がる紅を。
齧り付いて、芳醇な、柘榴に似ると言われている未知の味を味わい尽くしたい。
それらの欲求との格闘は、彼女にとって苦痛に他ならなかった。日常が埋め尽くされていく。澄んでいた景色が、紅く染まっていく。そしてそれを否定する。嫌悪する。自らを悪魔だと罵り続ける夜が、また一つ過ぎていく。
幾夜を経ただろう。解き放たれることのない彼女の欲求は、肥大化し、ついに張り裂けた。まるで熟れた柘榴が地に堕ちるように。
彼女は暗闇の中、右手のカッターナイフと自らの左腕を眺めていた。病的に白い肌は、友人にも母にも褒められた自慢だった。それが今は、こんなにも異様な欲求を持って彼女を押し潰そうとしている。
「もう、耐えることはできないの」
一人呟く。それは誰にともない懺悔だった。自らに向けたものなのかもしれなかった。右手に持ったカッターナイフを左腕に当てる。白い皮膚は、容易に裂けた。その下には、黄色い脂肪とルビーのような紅色が静かに脈を打っている。彼女の高揚は、今までにない解放を覚えた。何度も幻視した、何度も想像して、裂いて齧り付いたそれが、今は目の前にある。
「ああ…」
感嘆の声が漏れる。痛みはなかった。代わりに熱があった。それがこの傷によるものか、異様な精神の高揚によるものか、彼女に判断はつかなかった。滴る血が、柘榴の果汁を思わせた。それは芳醇で甘酸っぱく、彼女の大好きな、味。
もはや思考と理性は物を言わなかった。自ら作った白い皮膚の裂け目に、口をつける。味などわからなかった。柘榴と似ているかどうかさえ、彼女には判断がつかなかった。だがそれのもたらす解放という快楽は、彼女を完全に支配した。皮膚を噛みちぎり、硬い肉に歯を立てる。それは大切に、その一欠片を咀嚼する。口の端から漏れる血の一滴さえ、彼女には愛おしく思えた。彼女は初めて、恍惚を知った。争い難い、緊張と緩和の、『緩和』の快楽を知った。血はまだ流れている。少しも、逃したくはなかった。啜り、舐め、飲む。その動作ひとつひとつに彼女の生来の上品さは鳴りを顰めていた。まるで獣のように、狂気的な欲求に従う様は、もはや人と言えるかどうかすらわからない。だがそれでも、彼女は人だった。白い肌に黄色い脂肪と魅惑的な紅い肉を隠し持った、何処にでもいる人、だった。
恍惚を知った彼女のその後を知るものはいない。語るべきことはここで終わりである。彼女はこの密かな恍惚を、生涯隠し続けたのだろうか。それとも肥大化する欲求はやがて地に堕ち、腐り果てたのだろうか。それは知る由もない。
ただ私が最後に言えることは一つだけだ。
彼女は、何処にでもいる何ら特別でもない、ただの一人の少女だった、と。
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