疼く柘榴
鹽夜亮
第1話 疼く柘榴
柘榴はとある夜の下、月に見惚れていた。それは毎夜ごとに柘榴をもてなす祝福だった。柘榴は孤独だった。自らの宿った木には、他に一つも実はついていなかった。だから柘榴は、いつも空を見上げていた。
月は形を変えながら、時に朧げに、時に儚くも力強く、夜空を彩った。月の上らない夜は柘榴は一人、静かに自らの地面に堕ちるその時を思った。やがて熟れれば、柘榴は地に堕ちる。それは柘榴の運命だった。そこに悲しみも、感情もなかった。運命は、ただ運命としてそこにあった。それでも柘榴にとって、いずれ自らが堕ち行く地面を考えずとも良い月との邂逅は、慰めになっていないと言えば嘘になった。柘榴は天に羽ばたくことはできない。来るべき終わりは、ただ熟れて地に堕ちる、それだけだ。人も獣も寄りつかないこの木では、柘榴が熟れたところで好き好んで食べるものもいないだろう。地に堕ち、腐り、やがて虫に蝕まれ、そして土に還る。柘榴はそれを知っていた。
月は、やがて軋み始めた。柘榴だけがそれに気づいていた。月の輪郭が歪み、まるで痙攣するかのように震えている。それに柘榴が気づいたのは、己が熟れ始めたことに気付いたのと同じ夜だった。柘榴の救いである、憧憬の月は如何にも苦しそうだった。踠いているように、身を捻るように、毎夜ごと月は震えた。色を変え、輪郭を変え、まるで何かを訴えかけるかのように、月は壊れていった。
柘榴は悲しかった。地に堕ちる運命の自分が、憧憬と共に見上げていた月が狂っていくのを見るのは、まるで身を引き裂かれるかのような痛みを柘榴に与えた。そしてふと思った。月は、柘榴のように地に堕ちることなど、永久に出来はしないのだ、と。土に還る、それは幸福かもしれない。還る場所があるのだから。月に還る場所はなかった。月は、浮かび続けなければならなかった。夜を照らし続けなければならなかった。例えそれが幾億年の孤独だとしても、それが月の運命だった。
柘榴はやがて熟れを増した。自らの身が裂け始めるのを感じた。紅く紅く、内側に実った種子が月明かりに照らされた。月は相変わらず震えている。しかし、その光だけは、いつまでも変わらなかった。柘榴が、少しずつ土に還る準備を整えている、そんな夜でさえ。
柘榴は随分と裂けた自らの身を想った。月光に照らされる紅を想った。それは美しい光景に違いなかった。柘榴にとって憧憬の月は、柘榴をどう想っているのだろう?…そんな問いがぼんやりと宙に浮いているように思えた。その問いに答える間もなく、ついに柘榴は熟れ切った。
柘榴は自らの身が地に堕ちることを感じた。月が柘榴の世界から消えてゆく。草や葉に隠され、その先の月は、もはや月光で柘榴を照らすに至らなかった。
どさり。
地に堕ちた。柘榴はそれだけを感じた。来るべき時が来たのだ、ただそうなるべきものがそうなる、それだけのことだった。だが、自らの還る場所から月が見えないことは、柘榴にとって…そう、虚しかった。熟れた紅を晒す、それを照らす月光もない。夜毎に震えながら、身を捩るように浮かぶ月は既に見えない。柘榴は初めて、本物の孤独を知った。
地に堕ちた柘榴は、自らが還るまでの時間に途方もない長さを覚えた。少しずつ腐っていく体と、這い回る虫が、柘榴の唯一知る世界だった。土は優しく、そんな柘榴をただ受け入れていた。
柘榴は、半ば還る場所に還ろうとしていた。半分は腐り落ち、もう半分も紅色はくすみ、随分と醜い色を晒していた。柘榴は自らに残されている時間が残り少ないことを悟った。そして、もう一度月が見られたのなら、と願わずにはいられなかった。その時には、あの月が柘榴のことをどう見ていたか、知ることができるのかもしれない。そんな願望が柘榴の全てだった。
そして、私は、産まれた。
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