第28話 航海と、雷鳴。①


『いっしゃいませー』

『ポイントカードお持ちですかー』

『ありがとうございましたー。

 またお越しくださいませー』


 決まり文句で最後のお客さんを見送ってから、どれくらいの時間がたっただろう。


 日曜の夕方だというのに、店内はがらんとしていた。田舎幕張ではいちばん大きなスーパーの中にある書店なのだけど、ここまで空いているのも珍しい。


 レジの中で一人、黙々とブックカバーを折っていると、ゴロゴロと


 無論、店内で稲妻が走ったわけじゃない。前に店長から教えてもらった。外で雨が降りはじめると、この曲がBGMとして流れる。昔のアメリカのバンドの曲で、タイトルは忘れたけど、冒頭で雷が鳴り響き、それから雨の降る音を交えながらイントロに入る……という構成で有名だとか。

 実際雷はないにせよ、外では雨が降っているんだろう。客足が遠のくわけだ。本降りになる前に家に引っ込んでしまったらしい。


 完成したブックカバーを揃えてサイズごとにしまう。他の備品も不足はない。カバーも十分すぎるほど足りているけど、他にすることもないからまた五枚、いや十枚くらいまとめて、店長直伝のかまぼこ板(カバーを作る道具ならこれが一番らしい)で一気に折る。


 ……アルバイトを始めようと思ったのも、雨の日だった。


 いつものベンチも、いつも自分だけの場所でいてくれたわけじゃない。


 例えば、雨が横から殴りつけてくる日や、公園が家族づれで賑わう休日。

 居場所といってもさすがに居づらい日もあって、そんな時にはやはり大学に行くのでもなく、町のスーパーやらゲームセンターやら図書館やらをぶらついていたのだけど、たまたま目にした求人広告の前で足がとまった。

 その場を離れる前に、俺は電話番号を忘れないよう写真に撮っていた。


 全くもって何もしないというのも、それはそれで、しんどいことだったのだと思う。


 働くなんて俺には無理だ。初めはそう思っていたけど、案外なんとかなった。


 接客といっても定型文を覚えてしまえば流れ作業になったし、職場の人たちはみんな控えめで、話すのは天気や店の混み具合、せいぜい流行りのゲームや漫画のことぐらいで、お互いの私生活には踏み込まない。

 稀にカスハラなるワードがそのまま擬人化したような客もくるにはくるけど、幸い、心を無にしてやり過ごすスキルは習得済み。

 それに、大した額じゃなくとも自分で稼いだ給料を見ると嬉しかったし、なにより家にも公園にもいづらい休日に、あのベンチに代わる居場所ができたのはありがたかった。


 研修中が外れてもうすぐ三ヶ月、なんやかんやで続けられている。


 もしかすると、俺の人生はずっとこんな風に進むのかもしれない。そんなことを思う。


 ドロップアウトすることもあったけど、なんとか持ち堪えて。バイトでも非正規雇用でもいいから、乗り合わせた小さな船の上で、人生という航海を、ぷかぷかと浮かぶように進めていって。

 それは、誇れるような姿じゃないかもしれない。小さい頃の自分が見たらガッカリするかもしれない。でも。


 生きるためには、船が必要だ。


 学校でも、仕事でも、何でも。自分の力だけで、航海はできない。既に用意された船に乗って、社会に組み込まれなければ、人は生きていけない。

 勿論、船に乗れば全てが上手くいくわけじゃない。席は限られているし、自分一人で行き先を決められるわけじゃない。いつか行きたいと願った場所から針路がそれ、そのまま目的地を忘れてしまうかもしれない。


 でも、それくらい、大目に見ればいい。


 幼い頃にはいつだって、諦めなければ夢は叶うとか、本当にやりたいことを見つけようだとか、そういう言葉と共に大人たちが指し示した方角が、きらきら光って見えた。

 けど、何度か船を乗り換え、十数年も航海をつづけていれば、普通は気づく。あの残酷な大人たちが平気で口にした甘言は、無責任に捨てられた放流物でしかない。

 夢や理想なんて誰にでも見えるものじゃないし、仮にそれらが遠くで輝くのが見えたとしても、本気でそれを目指すのなら、船を離れ、自分だけで海に出なければならない。

 それはきっと、とてつもなく苦しい。誰にでもできることじゃないし、少なくとも、俺にはできない。


 だから、今みたいな生き方だって、ひとつの立派な航海であるはずで……。

 

 船の窓から眺める海の上を、ひとりの旅人が歩いていく──そんなイメージが、頭をよぎる。


 あいつのような人間は、特別だ。


 自分の好きと望みを、人目も常識も気にせず、全力で貫くスタイル。

 それができるだけで才能だし、それをするには時間も、お金だって必要で、その全部を満たした環境がやつにはあって。恐らくはそんな娘の自由奔放を放任できるくらい大層な親元があるのだろう。現に春日部さんというメイドさんまでついてるわけだし。

 べつに羨ましいわけじゃない。そもそも憶測の域を出ないことばかりで、でも、少なくとも、これだけは言える。


 クッキーと、俺とじゃ、その生き方も価値観も、致命的に違う。

 そう、はっきりと断言できるのに。


『このまま……お嬢さまの、旅の仲間でいてほしいのです』


 昔、似たようなことを言われた。


『ねえ、クズくん』


 どうして、だろう。


『君を、わたしの仲間にしてあげる』


 どうして。




「あのー」


「アッ、いらっしゃ──」って、あ。

 やべ、店長だった。


「さては日鷹くん、そうとうボーッとしてしましたね」

「スンマセン、店長。その通りです」

「うむうむ。しょーじきでよろしい」


 この店の責任者たる威厳をまとい、こくんこくんと頷く店長。

 しかしその身長はこちらの胸に届くかも怪しいほどであり、そんな可愛らしい距離感から上目遣いで名前呼びまでされてしまうわけである……正直、これが一番のモチベかもなぁ……とまたまたボーッとしていると。


「ではでは、そんな暇そうで仕方ない日鷹くんに、店長直々にミッションを与えましょう」

「あっ、はい、よろこんで」

「えっとですね、そのー」

 店長の目がきょろっと動いた。

「なんと言いますか、本を探しているみたいでして、そのお手伝いを」

「ははぁ」

「じゃーお願いします。向こうの、大きいリュックサックのお客さんです」


 大きい、リュックサック……。


「了解です」


 レジを離れながら、俺の頭は慌ただしく回転していた。大きい、リュックサックの、お客さん、デス……。

 控えめに言って最悪な予感しかないのだが、店長の指示をボイコットするわけにもいかんし……てか、まさかこれ、面倒臭そうな客の相手を押し付けられただけでは?

 だとしたらマジで……いやまだだ。まだ、あのおしゃべりモンスターと確定したわけでは……ッ!


「ちょっとちょっと店員さーん! ここにない本も……って、あああッ!」


 通路から飛び出してきた客と目が合う。

 棚にぶつかりそうなほど大きい、赤い化け物リュックサック。そして頭には……もう誰のものかと見間違えようのない、熱帯の生き物みたいなイエローの帽子──。


 俺は、これまでの厄介客との戦闘で鍛え抜かれた無心スキルを、即座に発動した。


 そうして両手をヘソの下にかさね、本物のメイドさんの手本にならって普段は使わない表情筋をも総動員。

 あらん限りの笑顔をこしらえ、百発百中、絶対に裏切らない安心と信頼の魂の一矢を──いつもの決まり文句を放ってみた。


「い、いらっしゃいませー……」


「アンタッ、よくも二日もつづけて約束を破ってくれたわね……このバカバカバカバ──じゃなくてクズっ! クズだかのクズクズクズクズクズクズーッッッ!」


 助けて店長、これ、カスハラにならんでしょうか……。

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