第2話
「……だから、父をがっかりさせたくないんです。でも、一度きりの人生だから、自分の夢も諦めたくなくて」
リリアは、膝の上で握りしめた両手に視線を落としていた。その声は途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうだった。彼女の「ストレス値」は、最初に会った時と比べてかなり下がっている。今では30を切っていた。
代わりに、「信頼度」は着実に上昇を続けているのが分かる。俺の存在が、彼女にとって害のないものだと認識された証拠だろう。
俺は彼女の言葉を遮ることなく、静かに耳を傾ける。彼女が本当に求めているのは、具体的なアドバイスではないはずだ。誰かにこの複雑な気持ちを吐き出し、ただ受け止めてもらうこと。
それは、現実の世界で、俺が何百人もの顧客に対して行ってきたことと、本質は何も変わらなかった。
「お父さんは、リリアさんが魔法学園に行きたいって言ったら、本当にがっかりするのかな?」
俺は、少しだけ視点を変える質問を投げかけてみた。彼女の思考を、少しだけ揺さぶるために。
「え……?」
リリアは、はっとしたように顔を上げる。その質問は、彼女にとってまったくの予想外だったらしい。
「だって、お父さんはリリアさんのことを一番に考えているんだろう?一人で育てて、お店も守って。そんなお父さんが、娘のたった一つの夢を応援しないで、がっかりするだけなのかなって、少し思ったんだ」
もちろん、これは俺の推測に過ぎない。他人様の家庭の事情に、軽々しく口を出すべきではないかもしれない。だけど、彼女の話を聞いている限り、父親が娘の幸せを願わないような人物だとは到底思えなかった。
「それは……考えたこと、ありませんでした。父が店を継いでほしいと思っているのは、当たり前のことだって、そう思い込んでて……」
「当たり前、か。そうだね、そうかもしれない。でも、当たり前だと思い込んでいることが、もしかしたら違う可能性もあるんじゃないかな」
俺は、買っておいたメロンパンの残りを一口食べた。少し冷めてしまったが、それでも十分に美味しい。きっと、愛情を込めて作られているのだろう。
「例えばだけど、一度、正直にお父さんと話してみたらどうかな。パン屋を継ぎたい気持ちもちゃんとあること。でも、魔法学園で勉強してみたいという夢もあること。両方の気持ちを、正直に伝えるんだ」
「正直に……ですか?」
「うん。それで、もしお父さんが反対したら、その時また考えればいい。どうして反対するのか、理由を聞けばいいんだ。もしかしたら、学費の心配をしてるとか、何か別の理由があるのかもしれないし」
「……」
リリアは黙り込んでしまった。自分の頭の中で、俺の言葉を必死に反芻しているのだろう。俺は彼女が自分の考えをまとめるまで、辛抱強く待った。沈黙もまた、カウンセリングの重要な要素だ。
やがて、彼女は顔を上げて、俺の目をまっすぐに見た。その瞳には、さっきまでの迷いはなく、確かな意志の光が宿っていた。
「私、父と話してみます。自分の気持ち、ちゃんと伝えてみます」
「うん、それがいいと思うよ」
「もし、それで……もしダメだったら、その時は、また話を聞いてもらえますか?」
少し不安そうに、リリアが付け加える。その気持ちはよく分かった。
「もちろんだよ。いつでもおいで。俺は、しばらくこの街にいるつもりだから」
俺がそう言うと、リリアは心の底から安堵したような、そして、決意に満ちた笑顔を見せた。それは、最初に会った時の作り笑いとは全く違う、本当に美しい笑顔だった。
『リリアの「ストレス値」が0になりました』
『リリアの「幸福度」が大幅に上昇しました』
『リリアの「信頼度」が最大になりました』
『クエスト【看板娘の悩み】をクリアしました』
システムメッセージが立て続けに流れる。クエストだったのか、と俺は少し驚いた。ただ話を聞いていただけなのに。報酬として、経験値と数枚の銀貨、そしていくつかのアイテムがインベントリに自動で追加された。
「あの、これ、お礼です!さっきのお代も入ってます。それと、これは私からの気持ちなんです!」
リリアはそう言って、小さな革袋と、紙袋に包まれたパンの詰め合わせを俺に手渡した。ずっしりと重い。
「いいのかい?話を聞いただけなのに」
「いいんです!ケイさんのおかげで、私、前に進む勇気が持てました。本当に、ありがとうございます!」
深々と頭を下げるリリア。俺は少し照れくさかったが、彼女の気持ちを素直に受け取ることにした。
「どういたしまして。頑張ってね」
「はい!」
リリアは元気よく返事をすると、パン屋の中へと駆け込んでいった。きっと今頃、父親と真剣な話をしているのだろう。うまくいけばいいな、と俺は心から思った。
俺はベンチから立ち上がり、夜の街を歩き始めた。手には、まだ温かいパンの袋。初めてこの世界で、誰かの役に立てたという確かな実感が、じわりと胸に広がった。
戦闘をしなくても、レベルが低くても、俺にもできることがある。それが、たまらなく嬉しかった。
宿屋に戻り、簡素な部屋で一息つく。リリアにもらったパンを一つ取り出して食べた。素朴だけど、どこか優しい味がした。
インベントリを確認すると、リリアからもらったアイテムの中に『リリア特製・勇気の出るパン』というものがあった。「食べると一時的に勇気が湧いてくる不思議なパン。特別な人への感謝の気持ちが込められている」と説明文に書かれている。これは、売ったりせずに大事に取っておこう。
ついでに、公式掲示板を覗いてみることにした。まだサービスが始まったばかりで、掲示板は有用な攻略情報やパーティ募集のスレッドで賑わっている。
その中で、一つだけ異質なタイトルのスレッドが俺の目に留まった。
【謎】NPCに異常に好かれてるプレイヤー「K」って何者?【情報求む】
スレッドを開くと、複数のプレイヤーによる目撃情報が書き込まれていた。
『広場の噴水前で、衛兵のNPCが「K」っていうプレイヤーにめっちゃ親しげに話しかけてた。なんか深刻な顔で相談してたぞ』
『俺も見た。雑貨屋の看板娘が、Kにだけ特別な割引をしてた。裏メニューのアイテムまで売ってた』
『戦闘ログ検索しても、Kなんて名前のプレイヤーはヒットしないんだよな。戦闘職じゃないのか?』
『もしかして、運営側のサクラだったりしてな。NPCとの交流を促すための』
『いや、でもあのNPCの反応はガチっぽかった。好感度カンストしてるみたいな、異常な感じだったぞ』
「K」というのは、おそらく俺のことだろう。プレイヤーネームを「ケイ」にしたから、アルファベット表記だと「Kei」か「K」になる。それにしても、噂になるのが早すぎる。まだログインして数時間しか経っていないというのに。
これも、ユニークスキル《傾聴》の効果なのだろうか。NPCの信頼度を上げることで、特別な反応を引き出しているのかもしれない。目立つのはあまり本意ではないが、このプレイスタイルを続ける以上、ある程度は仕方がないことなのかもしれない。
俺はそっとブラウザを閉じ、これ以上詮索される前にログアウトすることにした。
翌日、再びEAOにログインした俺は、まずパン屋に向かった。リリアのことが気になっていたからだ。店の前まで行くと、昨日とは打って変わって、晴れやかな表情のリリアが笑顔でパンを並べていた。
俺の姿を見つけると、彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。その足取りはとても軽やかだった。
「ケイさん!おはようございます!」
「おはよう、リリアさん。その顔を見ると、うまくいったみたいだね」
「はい!昨日、父に全部話しました。そしたら……」
リリアは一旦言葉を区切り、満面の笑みで続けた。
「応援するって、言ってくれたんです!パン屋の仕事は、学園が休みの日に手伝えばいいって。学費のことも、心配するなって……。父、私が魔法に興味があること、本当は気づいてたみたいなんです。ただ、私から言い出すのを待っててくれたみたいで……」
「そうか、よかったじゃないか」
俺も自分のことのように嬉しくなった。彼女の頭上のステータスは「幸福度:95/100」と表示されている。昨日とは大違いだ。
「これも全部、ケイさんが背中を押してくれたおかげです!本当に、ありがとうございました!」
「俺は何もしてないよ。リリアさんが自分で出した答えだ」
「ううん、ケイさんがいなかったら、私はずっと一人で悩んでただけです。そうだ、これ、新作のハーブティーの茶葉なんですけど、よかったらもらってください!心を落ち着かせる効果があるんですよ」
リリアはそう言って、またお礼の品を渡そうとしてくる。この世界のNPCは、本当に律儀で人がいい。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なくいただくよ」
俺は茶葉を受け取った。これも何かの縁だと思い、「茶葉栽培」や「菓子作り」といった生産スキルを取得してみるのもいいかもしれない。カウンセリングをする時に、美味しいお茶とお菓子があれば、相手もよりリラックスしてくれるだろう。
リリアに別れを告げ、俺はギルドに向かってみることにした。生産スキルを習得できる場所があると聞いたからだ。
街を歩いていると、何人かのNPCから声をかけられた。
「お、あんた、この間リリアちゃんの相談に乗ってた人だろ?うちの娘も今、進路で悩んでてな。よかったら話を聞いてやってくれんか?」
「あなた、もしかして噂のカウンセラーさん?ちょっとご相談したいことがあるんですが、今お時間よろしいでしょうか」
どうやら、リリアの一件は、すでに街のNPCたちの間で噂になっているらしい。口コミの力は、仮想世界でも絶大なようだ。俺は丁重に、しかし曖昧に返事をしながら、その場を切り抜けた。まだ、大々的にカウンセラーとして活動する心の準備ができていない。
ギルドに到着し、生産スキルを管理する受付嬢に話を聞く。幸いにも、いくつかのスキルは簡単な講習を受けるだけで習得できるらしかった。俺は早速、「茶葉栽培」「菓子作り」「簡単な木工」のスキルを習得した。これで、自分の拠点を持てば、お茶やお菓子作りができるようになる。
スキルを習得し、ギルドを出たところで、一人の屈強な男が俺の前に立ちはだかった。年の頃は四十代だろうか。使い込まれた鎧を身につけているが、その顔には深い疲労と、何かを諦めたような影が落ちていた。
「あんたが、ケイさんか?」
低い、よく通る声だった。彼の頭上には「ガイウス」という名前が表示されている。そして、「ストレス値」は85/100という、非常に高い数値を示していた。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「俺はガイウス。この街の衛兵をしている」
彼が、リリアの次に俺が気になっていた人物、元騎士団長のガイウスだった。昨日は遠くから見かけただけだったが、間近で見るとその存在感は圧倒的だ。しかし、その瞳の奥には、深い悲しみが澱んでいるのがはっきりと分かった。
「宿屋の主人から、あんたの噂を聞いた。どんな悩みでも聞いてくれる、不思議な力を持った人がいる、と」
宿屋の主人まで、俺の噂を広めていたのか。少し厄介なことになってきたかもしれない。
「悩み、ですか?」
「ああ。……少し、話を聞いてもらえないだろうか。もちろん、タダでとは言わん。相応の礼はする」
ガイウスは、真剣な目で俺を見つめていた。その目は、藁にもすがるような思いを湛えているように見えた。彼のストレス値の高さ、そしてその絶望的な表情から、彼が並大抵ではない悩みを抱えていることは明らかだった。
断る理由は、なかった。この人を放ってはおけない。
「分かりました。場所を移しましょうか。静かに話せる場所がいい」
俺の返事を聞いて、ガイウスの表情がわずかに和らいだ。ほんの少しだけ、彼の周りの空気が緩んだ気がした。
「感謝する。……ついてきてくれ。俺の馴染みの酒場がある」
ガイウスはそう言って、ゆっくりと歩き出した。俺は、彼の大きな背中を追いながら、これから始まるであろう重い話に、少しだけ身構えていた。彼のトラウマは、パン屋の娘の悩みとは比べ物にならないほど、根深いものに違いなかった。
俺たちは大通りから外れた、少し薄暗い路地にある酒場へと入った。昼間だというのに、店内には数人の客しかおらず、静かな時間が流れている。ガイウスは店の奥にある個室のようなテーブル席へと俺を案内した。
「ここなら、誰にも邪魔されずに話せる」
席に着くと、ガイウスは店の主人にエールを二つ注文した。俺はまだ未成年ではないが、ゲームの中でまでアルコールを飲む気にはなれず、水を頼んだ。
運ばれてきたエールを、ガイウスは一口で半分ほど飲み干した。そして、重い口を開く。
「どこから話せばいいのか……。あんたは、俺が元々、このアークライト王国の騎士団長だったという話は聞いたことがあるか?」
「いえ、初耳です」
「そうか……。まあ、今となっては昔の話だ」
ガイウスは自嘲気味に笑った。その笑顔は、ひどく痛々しかった。
「俺には、親友がいた。名前はレオン。俺と同じ騎士団に所属し、俺の右腕として、いつも隣で戦ってくれていた男だ」
彼の話は、十年前の隣国との戦争にまで遡った。激しい戦いの中で、ガイウスとレオンは常に最前線で剣を振るっていたという。
「あいつは、俺なんかよりずっと剣の才能があった。優しくて、仲間思いで、誰からも好かれていた。次の騎士団長は、俺ではなくレオンだと、誰もが思っていたんだ」
ガイウスはジョッキをテーブルに置き、ゴツゴツとした手で顔を覆った。その肩が、小さく震えている。
「最後の戦いだった。敵の将軍との一騎打ちで、俺は追い詰められた。相手の一撃を、まともに食らいそうになった、その瞬間……」
彼の声が、震えているのが分かった。
「レオンが、俺を庇って、その刃の前に飛び出したんだ。俺の、身代わりに……」
彼の指の間から、一筋の雫がこぼれ落ちた。それは、十年という長い間、彼の心に凍りついていた後悔の涙だった。
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