第28話 心の壁、崩壊

篠塚澪は、あの慣れ親しんだ杉の香りに包まれて、ゆっくりと目を覚ました。


意識が戻るやいなや、彼女は瞼を跳ね上げる。視界には主寝室の冷たいシャンデリアが揺れている。自分は晶のベッドに横たわり、羽毛布団がかけられている。そして、晶がベッドの傍らに座っていた。


ジャケットを脱ぎ、白いシャツの襟元を少し緩めた彼は、肘まで捲り上げた袖から引き締まった前腕を露にしている。片手が澪の額に触れ、その指先の温もりが、確かな重みとなって伝わってきた。

「起きたか」

低く、感情を滲ませない声。しかし、その深い瞳の奥に、かすかな安堵が走ったことを、澪は見逃さなかった。


心臓がきゅっと締めつけられる。記憶が一気に押し寄せる——書斎、引き出し、契約書、そして彼の平静な告白。あの夜の真実は、五年間かけて築き上げた憎悪と防御を、焼けた刃のように貫き、粉々に打ち砕いた。


彼を見つめ、唇が震える。目元が熱く染まり、涙が制御もなく溢れ、枕を濡らす。泣きたいわけではなかった。ただ、感情が制御不能だった。


晶は彼女の無言の涙を見て、微かに眉をひそめた。何も言わず、去りもせず、ただ沈黙して座り、鬱然とした視線を注ぎ続ける。この静かな寄り添いが、どんな言葉よりも澪の胸を掻きむしった。


澪はむくりと横向きになり、背を向けた。顔を枕に埋め、肩を押さえきれぬ嗚咽で震わせる。こんなみじめな姿を見せたくなかった。


背後で微かな物音。晶が立ち上がった。澪の心が沈む。去ってしまうのか——言いようのない喪失感が襲った。しかし、足音は遠ざからず、浴室へ向かい、やがて戻ってくる。温かいタオルが、湿った気配を帯びて、彼女の泣き腫らした目元にそっと覆いかぶさった。


絶妙な温度が、熱い瞼に安らぎをもたらす。澪の体が硬直する。泣き声は止まる。彼がこんなことをするとは。晶の動作は、どこかぎこちなく、不器用ですらあった。あの冷酷果断なイメージからは懸け離れている。しかし、彼は手を止めず、黙々と彼女の涙の跡を拭っていく。指先が時折彼女の肌に触れる。薄い胼胩のある指先は、少し荒く、しかし異常に温かかった。


澪の心臓は完全に調律を狂わせた。硬直したまま、微動だにせず、その動作に身を任せる。驚愕と茫然、途方に暮れる思い、そして——必死に抑え込もうとする禁断の憧れが入り混じる。これは彼らしくなかった。彼は、いったい……。


晶は涙を拭い終えても、すぐには離れなかった。彼女の震える背中を見つめ、沈黙を続ける。張り詰めた静寂が部屋を満たす。


やがて、晶がかすかに息を吸い込む音がした。何かを決意したかのように。

「あの契約書は」低く嗄れた声が沈黙を破る。「お前に思い出させるためではなく、俺自身に思い出させるためだ」

澪の体が、どっと大きく震えた。


「俺が……かつて犯した過ちを思い出させるためだ」彼の声には稀に見る自嘲の響きがあった。「俺の不覚と傲慢が、守るべき者を傷つけたことをな」

澪の心臓が、殴られたように揺れる。信じられない思いでゆっくり振り返り、涙に曇った瞳で彼を見つめる。晶はその視線を受け止め、かつての冷酷や査定はなく、ただ重苦しいほどの真摯さだけを示していた。


「この五年」彼は続けた。一言一言が、胸の奥底から搾り出されるようだった。「俺はお前を探した。ありとあらゆる手を尽くして。だが、お前は痕跡を綺麗に消していた。いや……お前自身を、あまりに見事に隠していた」

その平静な口調には、隠しようのない疲労と痛みがにじんでいた。

「リネアとして戻ってきて、悠斗への憎悪を隠さずに見せた時、ようやく……俺はお前を見つけ出せた」

澪の呼吸が止まった。涙が再び溢れる。やはり……「ずっと探していた」は真実だった。


「お前を側に置き、あらゆる手を使ったのは」声はさらに低く沈み、微かに緊張を含む。「憎悪のためではない。悠斗への復讐のためでもない」

「怖かったからだ」

彼は一瞬、言葉を切った。視線は彼女を強く捉え、一言一言を魂に刻み込むように。「望月結衣、俺は怖かった」嗄れた声が胸を打つ。「お前が振り返り、再び五年前のように跡形もなく消えてしまうのが怖かった。俺が……万分の一も償えぬままになるのが、な」

「お前を縛り付け、見張り、支配するのは、俺が思いつく……最も愚かで、最も確実な方法だった」


彼はついに、最も真実で、残酷で、そして心を揺さぶる答えを口にした。

復讐でも弄びでもない。恐怖。失うことへの、この男の内に秘める最も脆い弱点と恐慌。

澪は呆然とした。思考が停止し、全ての感情が、この全てを覆す真実の前に粉々になった。


彼女は晶を見た。冷徹な仮面が剥がれ、露わになった不器用なほどの率直さと深い痛み。五年間の憎悪と猜疑心は、この瞬間、滑稽であり、胸が張り裂けそうに痛ましかった。

そうか、互いに、それぞれの深淵で、同じ悪夢に五年も苛まれていたのだ。

彼女は口を開こうとしたが、喉が詰まって声にならない。


晶は手を伸ばし、指先で彼女の濡れた頬をそっと撫で、新たな涙を拭った。その動作は、驚くほど優しかった。

「今」彼は彼女を見つめた。瞳の奥には、これまで見たことのない、激しく渦巻く感情があった。「まだ、俺を怖がっているか?」


彼は彼女の過去の非難と恐怖を覚えていた。澪の胸が、これ以上なく痛んだ。彼女は力強く首を振った。涙がさらに溢れる。怖い?今の彼に、どうして怖がれよう。ただ……ただ、彼のため、そして無駄に過ぎ去った五年のため、心が痛むだけだった。


彼女が首を振るのを見て、晶の瞳の暗雲が、幾分か晴れたように見えた。しばらく沈黙し、彼はポケットから何かを取り出し、彼女の掌に載せた。

冷たい金属の感触。

澪が俯くと——それは、真新しい、小さな真鍮の鍵だった。

「これは……」

「書斎の引き出しの鍵だ」晶の声は幾分平静を取り戻していた。「今後、知りたいことがあれば、こじ開ける必要はない」一呼吸置き、付け加えた。「俺の元には、お前が盗み見るような秘密など、これ以上ない」


澪は、彼の体温が残るその鍵を強く握りしめた。それは、灼熱の信頼を握りしめるようだった。涙が再び視界をぼやかせる。


彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳で彼を見つめた。千の言葉が胸中で渦巻き、結局、それは砕けた嗚咽となって零れた。

「氷室晶……あなたは、本当に……ろくでなし……」

なぜ今さら?なぜこんなに長く、憎ませ、怖がらせたのか?


晶は深く彼女を見つめ続けた。泣き腫らした目、無防備な脆さを。喉仏が上下する。そして、彼は何も言わず、ただ手を伸ばし、彼女をそっと腕の中に抱き寄せた。


性的なものとは無縁の抱擁。堅固で、温かく、沈黙の安堵と遅れた償いを帯びている。

澪の体は一瞬硬直したが、すぐに全ての力を抜き、首元に顔を埋め、安心の杉の香りを吸い込む。五年分の屈辱と涙が、ついに堰を切ったように、静かに彼のシャツを濡らしていった。


晶は彼女を強く抱きしめ、顎を頭頂にそっと乗せ、腕に力を込める。まるで、彼女を骨肉と溶け合わせ、二度と離さないかのように。


窓の外、夜は深く静かに更けていく。

室内では、真実に焼かれ、そして温もりで包まれる二つの心が、長い冬を経て、ついに微かな光を見出した。

心の壁は、この瞬間、轟音とともに崩れ落ちた。

その亀裂の深部で育つのは、破滅か、それとも——新生か。

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