第26話 裂痕の微光

晶が最上階のマンションに戻ったのは、深夜に近かった。


リビングのフロアランプだけが灯り、薄暗い光がソファで身を丸める澪を浮かび上がらせていた。眠っているようだ。膝の上の研究所タブレットは開いたまま、冷たい光を放つ。


晶の足がドア前で止まる。彼女の眠る横顔を見つめる。日中の冷徹と警戒が解け、柔らかな光に脆く映る。眉間は微かにひそみ、夢の中でも安らぎを得られないようだ。今朝彼が渡したジャケットを、無意識に抱きしめている。救命の藁のように。


晶の深い瞳の奥に、極めて複雑な感情がよぎる。氷の仮面を揺るがすほど深く。

音もなく近づき、夜の冷気を帯びた自身のコートを脱ぎ、ごく軽く彼女にかける。


指先が、無意識に彼女の露出した首筋に触れる。その冷たさに、眠る澪は無意識に身を縮める。目覚めはしない。抱えるジャケットをさらに強く抱きしめ、鼻先を微かに動かす。馴染みの杉の香りを嗅ぎ取ったかのように、眉間が徐々に緩む。


晶の視線が、彼女のこの無意識の依存に落ちる。瞳の色が俄然深まる。何かに焼かれるように。

猛然と体を起こし、顎のラインをきつく引き締める。足早に酒棚へ向かい、強い酒を注ぎ、一気に飲み干す。辛辣な液体が喉を灼く。心頭の、見慣れぬ焦燥の火種を鎮められない。

苛立たしげにネクタイを緩める。全てを掌握したこの空間が、息苦しく感じられるのは初めてだ。


翌朝、澪はソファで目を覚ます。体には晶のジャケット、自身のジャケットを抱きしめている。

茫然と体を起こし、だるいこめかみを揉む。記憶が戻る。

(待ちくたびれて眠った……しかも、彼が服をかけて……?)


高価なジャケットを見つめ、複雑な心境。

(半夢半醒で、馴染みの冷たい気配が近づき、悪夢を追い払ってくれた……錯覚か?)


レストランでは、晶がもう座り、新聞を読んでいる。手元のブラックコーヒーから湯気が立つ。清潔なスーツ、表情はいつもの冷徹。昨夜のことが幻だったように。

足音に、頭も上げず、淡々と言う。

「食事をしろ」

声は冷徹、微塵の感情もない。


澪は黙って座り、トーストを齧る。味がしない。

二人の間に、息の詰まる沈黙。


「今日……」澪はためらいがちに口を開く。昨日の本宅のことを尋ねようとするが、言葉を飲み込む。

「研究所ですが、早急にプロトタイプテストを始めたい」

「うむ」

晶は新聞のページをめくる。瞼一つ動かさない。

「必要なものは、直接周に言え」

「……はい」


澪は俯き、それ以上言わない。

彼の張り巡らせた見えざる障壁に、再び隔絶される感覚。


続く数日、奇妙な平静が続く。

澪は全精力を研究に注ぐ。新材料の特性に魅了され、大胆な構想を次々と提案し、周教授のチームと火花を散らす。最初のスマート温調織物とオートクチュール礼服のプロトタイプが、彼女の主導で形になり始める。


晶はそれ以上干渉しない。ただ、夏目秘書に進捗を尋ねさせ、研究所の全リソースが彼女に無条件で提供されるようにする。彼は相変わらず忙しく、朝早く出て夜遅く帰る。同じ屋根の下にいながら、顔を合わせることは稀。会話は極めて短い業務連絡のみ。

彼はもう、悠斗のことも、彼女の母のことも、あの夜の曖昧な「告白」や警告にも触れない。何もなかったように。


だが、この意図的な回避と沈黙は、かえって澪を落ち着かなくさせる。

(透明なガラスのドームに閉じ込められたようだ。外は見えるが、触れられない。晶の真意も見極められない。)


この日午後、澪が研究所で光致変色繊維の応答速度をテストしていると、スマホが震える。見慣れない市外局番。

眉をひそめて受話。


向こうから、聞き覚えのある、切羽詰まった泣き声——

「結衣……私よ……華蓮……」

(白石華蓮?!)


澪の心臓が激しく沈む。

(どうしてこの番号を?なぜこんな口調で?)

「何の用?」

声は瞬時に冷たい。研究所の隅へ移動する。


「結衣……お願い……助けて……銘軒を助けて!」

華蓮の声は途切れ途切れ、絶望と恐怖に満ちている。

「叔父様が……私たちを破滅させようとしている!銘軒のカードを全部止めさせ、全ての役職を取り上げ、国外の幽霊会社へ送ろうとしている……流刑よ!一生が台無し!」


(晶の動きはこんなに速く?こんなに容赦ない?)

「それはあなたたち氷室家の問題。私には関係ない」

冷徹に答え、電話を切ろうとする。


「違う!関係ある!貴方と関係あるの!」

華蓮が叫ぶ。言葉は混乱している。

「全部貴方のせい!叔父様は貴方のために、銘軒にこんなことをしている!彼は狂っている!貴方のためなら何でもする!結衣……分かっている、昔はひどいことをした……憎むのは当然……でもお願い、昔の友情にかけて、助けて?叔父様を説得できるのは貴方だけ……お願い……」


(昔の友情?)

澪は冷笑したくなる。拒絶しようとしたその時、向こうから突然、混乱した騒音。華蓮の恐怖の叫びと、男の怒鳴り声が混じる。

(悠斗が電話を奪った!)


「望月結衣!貴様この下劣な女!叔父様に取り入れば安泰とでも?!教えてやる!夢を見ている!」

悠斗の声は、狂気的な憎悪とヒステリーに満ちている。

「待て!貴様らに良い思いはさせぬ!俺は証拠を持っている!貴様らを破滅させられるものを!待て——」


電話が猛然と切断される!プープーという無機質な音だけ。

澪はスマホを握りしめ、立ち尽くす。全身が氷のように冷たい。

(悠斗の最後の脅迫……毒蛇の舌のようだ。彼は何を持っている?「貴様ら」を破滅させられるもの?私と晶を?)

(そして、華蓮の言葉……「彼は貴方のためなら何でもする」……針のように心の奥深くに刺さる。)

(晶の電光石火の手段……本当に私のため?)


荒唐無稽な可能性を、すぐには否定できない自分に気づく。心は乱れ、千々に砕ける。


もはや実験に集中できない。早々に研究所を離れ、マンションへ戻る。静かな時間が必要だ。


マンションは無人で、心細いほど静か。

なぜか自室へは戻らず、晶の書斎のドアへ向かう。ドアは半開き。急いで出かけたのか、きちんと閉めていない。

澪の心臓が、理由もなく急加速する。

(入るべきではない。プライバシーの侵害だ。見つかれば、取り返しのつかないことに。)


しかし——悠斗の脅迫、華蓮の泣き叫び、晶のこの数日の異常な沈黙……無数の手が、彼女を背中から押す。

唇を噛み締め、そっとドアを押し開ける。


書斎には、微かな杉と煙草の混じった晶の気配。調度品はシンプルで冷徹、彼自身を体現するようだ。

視線が巨大な紅木のデスクを掃う。パソコンと書類以外、何もない。


ためらいながら、いくつかの引き出しを開ける。普通の事務用品と書類。

心臓が太鼓のように鳴る。見つかる恐怖と、真実への渇望。


最後に、視線はデスク最下段の、鍵のかかった引き出しに落ちる。

(なぜこれだけ?何が隠されている?)

かがみ込み、引っ張る。固く閉ざされている。

諦めきれず周囲を見回す。ペン立てにレターオープナー。

内心で激しい葛藤。

(ダメだ……しかし……)


真実への渇望が、恐怖を上回る。

レターオープナーで、慎重に鍵の舌をこじ開けようとする。数回の微かな「カチッ」という音——

鍵が、開いた。


心臓が胸を破りそうだ。震える手で、ゆっくりと引き出しを開ける。


中身は少ない。


一番上——氷室悠斗の長年にわたる不正と横領の、分厚い詳細な調査報告。期間は極めて長く、証拠は鉄壁。


澪は素早く読み進める。悠斗の大胆さに驚愕し、晶が既にこれほどの鉄証を掴んでいることに衝撃を受ける。

(つまり……彼が悠斗に手を下したのは、完全に私のためだけではない?)

安堵と、漠然とした……喪失感。


ちょうどその時、書斎の外から、突然——暗証番号ロック解除の「ピッ、ピッ」という電子音。


そして——晶の低く、少し疲れた声!

「うん、そっちは先に……」


彼が——帰ってきた!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る