第2話 荊棘の盤上遊戯
プラチナ・グレイスホテルの宴会から三日後。
「涅槃」デザインスタジオは、汐見市CBDの高層ビルに静かにその存在を示した。
ガラスの壁越しに差し込む光は、白と深緑のコントラストを鮮明に描き出す。
静謐でありながらも、張り詰めた緊張が空間に漂っている。
ミニマリストな内装は、篠塚澪という女の鋭い美意識と底知れぬ財力を、無言で物語っていた。
メディアがその存在を報じるや、「謎の女性デザイナー、リネア」の話題は再び熱を帯びる。
一方、氷室悠斗はオフィスで苛立ちを隠せずにいた。
「涅槃」に送り込んだ部下は、ことごとく門前払い。氷室家の次期当主としての面子は、音を立てて崩れた。
だが、彼の頭から離れないのは、あの女のこと。
深緑のドレス、冷艶な顔立ち。どこかで見たような――
そのざわめきが、胸の奥で期待と焦燥とともに、かすかな冷汗として波打つ。
「悠斗さん」
白石華蓮がコーヒーを運んできた。
優しい声の裏に、微かに滲む不安。
「まだリネアさんのこと? きっと駆け引きですわ」
「駆け引き?」 悠斗は鼻で笑った。
「彼女は俺には目もくれず、叔父様ばかりを見ていた!」
嫉妬が、自分でも気づかぬうちに口調に混じる。
華蓮の指先が微かに震えた。氷室晶――あの男が絡めば、すべてが予測不能になる。
「でも、叔父様が女性に興味を持つはずがない。ビジネスですわ」
無理に笑みを作り、華蓮は切り札を差し出す。
「『涅槃』が原材料のサプライヤーを探していると聞きました。白石家からアプローチしてみませんか?」
悠斗の目が瞬きなく輝いた。「華蓮、さすがだ!」
「涅槃」スタジオ。
篠塚澪は宝石のサンプルを透かし、冷静な瞳で細部を見つめる。
「リネア様、白石企業の代表がいらっしゃいました」
アシスタントの報告に、唇に氷のような笑みが浮かぶ。
魚が、自ら針に掛かった。狩りの時間だ。
会議室では、白石家のプロジェクトマネージャーが、ほぼ赤字覚悟の好条件を提示した。
澪は気のない様子で提案書をめくり、ある条項を指さす。
「この価格で、利益が出ると思われますか?」
「リネア様とのご縁が何よりです」
彼女は提案書を閉じ、穏やかだが圧倒的な視線で相手を射抜いた。
「条件は悪くない。ですが……」
一拍置き、声を緩める。
「私が求めるのは、価格以上のものです」
「白石華蓮様――汐見大学デザイン科の才女と伺っています。地元の美学について、ぜひ直接お話を伺えませんか? 理念の共有こそ、協働の礎ですから」
プロジェクトマネージャーは言葉を失った。
商談で、令嬢に理念を問うとは――
しかし断る理由など、どこにも存在しなかった。
スパでその連絡を受けた華蓮は、疑念と嫌悪で胸を掻き乱した。
あの女は、私を嘲笑うために呼ぶのか……?
だが、悠斗の関心とビジネスチャンスを考えれば、避けては通れない。
「お会いすることを楽しみにしている、とお伝えください」
唇を噛み、華蓮は決意を固めた。
翌日、シャネルのスーツに身を包み、完璧な笑みを装った華蓮は「涅槃」の会議室に現れた。
篠塚澪は、彼女を十五分待たせた。
ドアが開き、鋭い視線が華蓮の目に突き刺さる。
息が、ほんの一瞬止まる。
「白石様、おかけください」
澪は主宰席に座り、即座に本題に入った。
「白石様は学業優秀、特に古典美学に造詣が深いと伺いました。ぜひ、お聞かせください」
華蓮はほっと息をつき、準備した台詞を流暢に語り始める。
話の随所に悠斗との関係や自身の社会的地位を織り交ぜる。
澪は静かに聞き、時折頷く。指先で金属製ペンを無意識に回す。
華蓮が「砂漠の薔薇のように、しなやかで強い女性を尊敬しています」と語った瞬間、澪は小さく、しかし鋭い笑い声を漏らした。
「……何か?」華蓮が言葉を止める。
澪は体を前に乗り出し、氷の刃のような眼差しで語る。
「砂漠の薔薇……美しい名前です。でも、あれは石膏の結晶で、本物の花ではありません。脆くてすぐ砕けます」
声は低く、甘く、そして危険を孕む。
「まるで、見かけは立派でも、少し触れれば正体が露わになるもののようです。ねえ、白石様?」
華蓮の顔から血の気が引いた。
この女は、すべて知っている……!
「私、それは……!」
反論しようとした瞬間——ノックの音。
アシスタントが顔を出す。「リネア様、氷室社長がお見えです」
澪の眉が微かに動いた。氷室晶?
華蓮は、溺れる者が藁をつかむように期待の眼差しをドアに向けた。
叔父様が来れば、この女も態度を改めるはずだ。
長身の氷室晶がドアに現れ、冷徹なオーラが会議室を満たす。
一瞥で状況を把握し、澪の隣に自然と座った。
「美学の議論の邪魔をしたか?」
接近は、目に見えない圧力で澪を包み込む。
五年前、背中を丸めて耐えたあの夜の恐怖が、今、脳裏をかすめる。
彼女は微かに体をずらし、淡々と言う。「ただの雑談です」
華蓮が焦って口を挟む。「ええ、リネア様の独創的なお考えを伺っていまして……!」
しかし晶の視線は、澪の手元にあるペンへ。
「そのペン、まだ使っているのか」
心臓が高鳴る。
彼は、こんな細かいことまで……!
「……ただの文具です」
晶は動揺を無視し、華蓮に視線を移す。口調は変わらず冷静だ。
「華蓮、お前が大学の課題を銘軒に手伝わせていたこと、そして期末制作で剽窃疑いをかけられ、停学になりかけたことは、俺も覚えている」
「!」
華蓮は顔面を青ざめる。あの事件を、なぜ彼が……!
澪はすぐに晶の意図を悟った。
彼は助けに来たのではなく、とどめを刺しに来たのだ。
彼女は驚いた顔をして華蓮を見る。
「まあ、そんなことが? 氷室社長がおっしゃらなければ知り得ませんでしたわ」
嘲笑を帯びた言葉は、見えない棘となり、華蓮の心をズタズタに裂いた。
「やはり、パートナーの“理念”は、深く知る必要がありますね」
華蓮は震えながら立ち上がり、ろれつも回らぬ言い訳を吐くと、会議室から逃げ出すように去っていった。
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