第3話 暗流と駆け引きの舞台

白石華蓮は「涅槃」スタジオを、逃げ出すように飛び出した。

ハイヒールの金属音が床に乱れ、彼女の崩れ落ちそうな心をまざまざとさらけ出す。


エレベーターの冷たい壁に背を預け、荒い息を吐く。

顔には血の気がなく、屈辱と恐怖で全身が震えていた。


なぜ氷室晶が……?

あの女は、まさか……?


ありえない。あの女は、とっくに消えているはずだ!


震える手でスマホを取り出し、氷室悠斗に電話する。

「悠斗さん! あのリネアが、私を……!」


「華蓮、今は忙しい!」


冷たいトーンで一蹴され、通話は切れた。

プープーという留守電の音だけが、白石華蓮に凍りつく絶望を突きつける。


彼女の頭には、悠斗の今日の冷たい声と、リネアに向けた隠せないほどの興味が、呪いのように響き渡っていた。

_私は、何のために完璧でいたの?_

その日、彼女は人生で初めて、自分の足元を支えていたものが、砂のように崩れ始めているのを感じた。


会議室には、濃密で重い空気が張り付いていた。

氷室晶の問いが、冷ややかに空間を震わせる。


「次に、誰を燃やすつもりだ?」


篠塚澪は底知れぬ眼差しを受け止め、書類の下で拳を握りしめる。

ここで、ひるむわけにはいかない。


「氷室社長、ご冗談を」

ビジネスライクな微笑を浮かべるが、声には鋭い棘が隠れる。

「私は商人です。利益のために帰国しました。法治社会で、合法的な競争以外に何がありましょう?」


「競争?」

氷室晶はその言葉を弄ぶように繰り返した。

「悠斗の無能なプロジェクトと? それとも、白石家の取るに足らない産業と?」


路傍の雑草を見下すような徹底した軽蔑。

篠塚澪の背筋に冷たいものが走る。彼は、すべてを俯瞰していた。


「では、なぜお聞きになる? あるいは」

彼女の声に棘が潜む。

「甥御さんがお心配で、わざわざお説教に?」


氷室晶は低く笑った。

その笑い声が、彼女の神経を鋭く逆撫でする。


「あいつが?」

立ち上がると、その長身が影のように篠塚澪を覆う。

黒いスーツの完璧なラインは、まるで隙のない捕食者のようだ。

「氷室家は、無能を養わない」


窓辺に歩み寄り、街を見下ろす。

ガラス越しの夜景が冷たく光り、ビルの灯りがまるで小さな星のように瞬く。


「俺はただ……お前の『競争』がどう動くのか、興味がある」

振り向くその眼差しは、鋭利な刃のようだ。

「氷室家の者に手を出す以上、たとえ虫けらであろうと、相応の代償を覚悟しろ」


これは取引ではない。一方的な宣告だ。


怒りと屈辱が沸き上がる。彼は私を、何だと思っている?


「代償?」

篠塚澪も立ち上がり、彼と並んで窓の外を見る。

「お忘れですか? 私は今、氷室家の『潜在的な協力者』です。私を敵に回せば、氷室氏自身が傷つくこともあり得る」


自分自身に言い聞かせるようにそう言った。


氷室晶は横顔を向け、彼女の強ばった輪郭をじっと見つめる。

陽光が長い睫毛に落ち、脆げな陰影を描く。


「協力?」

彼は繰り返し、そして低く口を開いた。


「明晩七時。プラチナ・グレイス最上階」


篠塚澪は一瞬、理解できなかった。

「え……?」


「協力したいのだろう?」

既定事実のような口調。


「機会をやる。直接、俺を説得してみろ。お前のプロジェクトが、遊びにつき合う価値があるかをな」


返事を待たず、彼はドアへ向かう。

ノブに手をかけ、微かに止まる。振り返らない。


「そうだな」

その声は、明確に彼女へと向けられている。


「そのペンは、もうお前には合わない。次に会う時は、モンブランの新作を使え。今のお前にふさわしい」


ドアが静かに閉じた。


篠塚澪は一人、立ち尽くした。

全身の血の気が引いていく。


彼は覚えていた……あのペンを?

そんな細かいことまで……!


氷室悠斗や白石華蓮の露骨な悪意よりも、

この完璧なまでの“見透かし”の方が、何倍も恐ろしい。


明晩のディナー——それは機会か、罠か?


彼女はゆっくりとデスクに戻る。

復讐の道は、想像以上に荊棘に満ちている。

そして氷室晶は、最大の障害であり、あるいは……最強の武器か。


彼がすぐに手を下さなかったということは、

彼女の行動は、彼の**“許容範囲”内か、あるいは——“面白い”**と映っているのだ。


ブーブーというバイブ音が、思考を遮る。

画面には「コウちゃんの幼稚園」と表示される。

氷のように冷え切った表情が、一瞬で柔らかく溶けた。


タップすると、粉雪のように愛らしい男の子の笑顔が飛び込んでくる。


「ママ! いつ帰ってくるの?」

甘えた声が、部屋の暗い空気を一掃した。


「コウちゃん、今日ね、赤い花、二つももらったんだよ!」


息子の誇らしげな顔を見つめ、篠塚澪の心の動揺は静かに鎮まる。

この子のためなら、どんな困難も乗り越えてみせる。


「ママ、すぐ帰るね。すごいね、コウちゃん! 何が食べたい? ママが買って帰るよ」


通話を終え、澪は唇の内側を噛み、かろうじて反撃の衝動を押し殺した。

再び確固たる決意が目に宿る。


内線電話を取る。

「モンブランの最新作を手配して。それと、明日の夜の予定は全て空けて」


受話器を置き、篠塚澪の紅い唇が、ゆっくりと弧を描いた。


氷室晶……あなたがこの“芝居”を見たいのなら、

私は、あなたが一生忘れられないほど“熱い”舞台を、用意してあげる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る