part.6
「んー……」
アラームが鳴る前に、目が覚める。
カーテンの隙間から差し込む朝の光がやけに眩しくて、思わず顔をしかめる。
まだ何も始まっていないはずなのに、心はもうぐったりと疲れていた。
今日が始まる、そのことだけで息苦しくなる。
息を吸うたびに胸の内側がちくりと痛む。
ふと、ベッドの脇に置いたスマホに視線を落とす。
思い出したくないことほど、こうして無意識に思い出してしまう。
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
「……ばかみたい」
朝の空気に溶けていくその一言が、今日の私の第一声だった。
救いようがないなと思いながらのろのろと体を起こし、無言で制服に袖を通す。
鏡に映った自分の顔は、昨日の私と同じはずなのに、どこか他人のように思えた。
玄関を開けると、雲ひとつない快晴が広がっていた。
昨日と同じ空のはずなのに、どうしてこんなにも違って見えるんだろう。
青すぎる空が、むしろ痛々しかった。
私はその空に似合わない顔のまま、そっと一歩を踏み出す。
*
「ばいばい、優菜」
放課後、そそくさと帰ろうとする私に優斗が穏やかな声で言った。
晴れた日差しのような笑顔で、ひらひらと手を振る。
その笑顔に、ほんの少しだけ胸がざわついた。
たった一度の通話で他の男にここまで心を揺らされてしまう私に、それでも優斗は変わらず笑いかけてくれる。
たぶん彼なら、本当のことを知っても私を見放してはくれない。
もしかすると、私のために私を手放してくれるかもしれない。
「ばいばい」
私も笑って手を振り返す。
側から見れば2人同じように笑っているのに、心の中はこんなにも違うなんて誰も思わないだろう。
そのまま優斗の背中を見送って、私は一人教室をあとにする。
街の喧騒が、ひとり歩く私の心に冷たく響く。
私はずっと、誰と一緒にいても孤独だった。
誰も私を見てくれない。
私が欲しいと思った好意は、いつもすり抜けていった。
冷たい視線と、刺のある言葉、振り下ろされる拳に怯える日々。
私の小さな体は、痛みから逃れようとただ反り返るしかなかった。
それが当たり前で、だから私は、私の人生を良くしようと努力することなんてとっくに諦めていた。
でも――
水稀と話していた、あの時間だけは違った。
生まれて初めて、過去を忘れられた気がした。
重たい鎖から一瞬だけ解き放たれて、乾いた砂漠で偶然きらりと光る宝物を見つけたような、そんな気持ちだった。
少しだけ、どうしようもない明日を生きてみたくなった。
たった一度の電話。
そんなことで、と笑う人がいるかもしれない。
けれどそれを笑える人はきっと、私よりもずっと幸せな人生を歩いてきた人だ。
人生の中の何億分の1ほどの短いあの時間が、その比にならないほどの意味を持った。
それくらい、私のこれまでの人生はちっぽけなものだったのだから。
*
ガチャ――。
玄関を開けた途端、埃の混じった空気にむせた。
誰もいない、いつものことだ。
母は何年か前に出ていったきり戻ってこないから、今は父とふたりきりの暮らし。
「おかえり」と声をかけてくれる人がいないのは今も昔もそう変わらないけれど、それでも、扉を開けた瞬間の家の匂いだけは、いまだに母の記憶を呼び覚ましてしまう。
無意識に手足が震える。
金切り声で怒鳴る声と振り上げられた拳。
みぞおちに正確に拳がめり込んだときのあの鈍く光る痛みといったら、思い出したくもなかった。
私は、母に関する記憶にいいものなどほとんど持っていなかった。
あるのは、ひりひりとした罵声の残響ばかり。
"ブス、あんたなんか生まれてこなければよかったのに…"
何度繰り返されたのかわからないその言葉はとうに私の皮膚に染み込み、涙さえも枯れさせてしまった。
痛みを感じるより前に、諦めが先に来るようになっていた。
母のせいで、私は人と話せなくなった。
馬鹿な私の意見や気持ちなどきっと誰も求めていない、母から植え付けられた暴言は私から自信を奪い、声を封じた。
怖かった、誰かに否定されるのが。
間違えて失望されるのが、息をするより自然に私をすくみ上がらせた。
だからいつも言葉は喉の奥で詰まって、声にならない。
たった一言自分を語ることですら冷や汗が止まらなくなる。
反応だけでろくに喋らない私に、当然みんな腹を立てて嫌った。
そんな現実を前にしても、幼い頃の私は絶望する以外の手段を知らなかった。
可愛くない子。
言いつけもちゃんと守れない、何もできないダメな子。
だから殴られても仕方ない、愛されなくても、嫌われても文句は言えない。
ずっと、ずっとそう自分に言い聞かせて生きてきた。
それでも昔の悪夢のような日々に比べれば、放任されている今の方がずっとマシだった。
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