第15話 決意

 陽斗は自分の叫び声で目を覚ました。

 驚きのあまり既に起きていた赤月八雲あかつきやくもが歯ブラシを口に咥えたまま、洗面所から顔を出している。何があったのかと目を丸くし、陽斗を見つめていたが直ぐに洗面所へ引っ込んだ。気がつけばあの古びたビジネスホテルにいて、ツインベッドの片方に横たわっている。陽斗は天井を朧気に見上げながら自分の手のひらを翳した。今は何日なのか、何をしているのか手がかりになるようなものはなく、何故ここに戻っているのかも分からない。

「…随分と魘されていたようだが、悪い夢でも見たのか?」

 洗面台から出てきた赤月八雲あかつきやくもが傍まで来て、陽斗の顔を覗き込んだ。かなり久しぶりに赤月の顔を見た気がするが、彼は変わらずふてぶてしい表情のまま自分の近くにいる。しかし彼の記憶の中で出逢った暁八雲シャオ・バーユウとは顔立ちが若干違い、彼が言っていたように時代と共に変化してきたのだと改めて実感した。今まで起きた全ての出来事が夢で、ここに居るのが現実ならば何よりも嬉しい筈だ。それなのに陽斗の視界は次第にぼやけ、両目からは涙が溢れて止まらなくなった。この場所にはまだ戻ってはいけないのだと、己には何かやらねばならないことがあるのだと、ようやく陽斗自身が理解した。

「…八雲…俺、まだ帰って来れない」

「……」

 悲痛な声に返される言葉はなく、涙を拭おうとした陽斗の手のひらには、赤いものがべっとりと着いているのが見えるだけだ。

「憶えておけ。おまえの帰る場所は、何時だってすぐ近くにある」

 彼は何時になく優しい口調でそう言うと、手を差し伸べ陽斗の目元に溜まった涙を指先で拭った。その腕にすがろうと陽斗は手を伸ばしたが、指先が触れただけですぐに自分の胸元へと引き寄せる。

「ありがとう…次あんたの手を握るのは、俺の目が醒めた時だな」

 視界の中心にいる赤月八雲あかつきやくもの顔が何かを言い掛けていた途中でぐにゃりと歪な形に掻き消えた。急速にベッドのマットレスが腰から沈み込む。部屋と空間が捩じれるような妙な感覚に襲われると、頭が割れそうな強烈な痛みが奔り、陽斗は小さく呻き声を上げた。


×   ×   ×


「っ……八雲やくも……」

「…はると、だいじょうぶ…?」

「ン…ここはどこだ…?写真館か…ホテルか?崑崙山か?」

「何を寝ぼけてるんだ…置いていくぞ」

 聞き覚えのある声は白福バイフー暁八雲シャオ・バーユウ、そして自分が発している天陽龍テン・ヤンロンの声だった。横たわっていた上半身を起こし、こめかみに手を当てる。どうやら長い間現実味を帯びた夢を見ていたらしく、やけに頭が重く感じた。二日酔いと言うよりは単に寝すぎたようで、心配そうな顔をした白福バイフーが水の入った竹筒を両手に抱え持ってきてくれた。中身を一息に飲み干し、ようやく焦点の合った視界に二人の姿を捉える。

「…はぁ、生き返った気分…」

「そのまま目覚めない方が良かった、などと言うなよ」

「分かってるよ。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ」

 陽斗は夢の中で見た光景を、二人に伝えようか随分と迷った。しかし口に出せば現実になってしまいそうな気がして、何も言わずに寝台から立ち上がり大きく伸びをする。

 ふと自分の手の平を見つめるが、あの生温かい感触もこの手の中から命が消えゆく瞬間も、未だに鮮明なまま脳裏にこびりついている。

 自分がやらねばならないことが何なのかは、まだ詳しくは知らない。しかしその時が来たら逃げ出さず、目の前を直視しなければいけないのだということは分かっていた。

「シャオさん、あんたに何かあった時は俺が助けるから」

「…いきなりどうした?まだ酔っているのか」

「いいや、守られてばかりは嫌なんだよ」

「はると…?」

「その代わり俺には俺のできることしかできないからさ、不格好でも笑わないでくれよ」

 昨晩まで何かを抱えていた彼とは打って代わり、腰の脇に両手を当てて憑き物が堕ちたかのように笑っている。これこそが彼らしい表情なのだと、暁八雲シャオ・バーユウには思えた。思わず口の端を歪め、一見すると悪役のようににやりと口端を歪め笑みを浮かべる。

「…どうやら、元に戻ったようだな」

「はると、元気になった?」

「ああ!…二人とも、心配かけてごめんな。少し寝過ぎたみたいだ」

「元気になれたら良いよ!お腹すくと元気が枯れちゃうから」

 白福バイフーの頭をわしゃわしゃと撫で、人懐っこい笑みを溢れさせる彼を抱き上げた。他者から見れば、きゃっきゃとはしゃぐ二人の姿は本当に親子のように見える。

「じゃれてないで行くぞ。…この会話、既に何度か聞いた覚えがあるな…」

「あれ?そうだっけ。なぁシャオさん、山に入った後…気をつけた方がいいかも。確証はないけど、もしかしたら待ち伏せされてるかも知れない」

「えぇ?待ち伏せ?結界の中は簡単に入れないぞ」

「その根拠は何だ」

 暁八雲シャオ・バーユウにそう問われると、陽斗は「勘だよ」と即答した。杞憂ならそれで構わず、何も無いのが最善だが、あの夢が正夢ならと思うと黙っていることはできなかった。

「…おまえの勘を信じるからな。……何も居なかったら尻を抓る」

「ああ!尻を抓るでも尻叩きでも何でも…って天陽龍テン・ヤンロンの身体にいいのかよ!」

「天兄怒るぞ~!」

「ふ…その程度で怒るやつではない」

 三人が部屋の出口に向かうと、陽斗は既に荷物が纏めて置かれている光景を見て暁八雲シャオ・バーユウに視線を向けた。食糧や水の用意、陽斗の作った即席棍棒に補強まで施されており、どうやら準備は万全にできていたようだ。すぐ出発する事ができる状況に、陽斗は申し訳なさが募った。

「もしかして…俺が寝てた時に全部…?」

「ああ。夢の中で忙しそうだったからな」

「え⁉」

「…白福バイフーより寝相が凄かったぞ」

「……」

 陽斗はそれ以上何も言えず、天陽龍テン・ヤンロンの逞しい顔を真っ赤に染めて俯き、黙ってくつを履いた。


×   ×   ×


「では、お気をつけてくださいまし」

「お世話になりました!」

「また近いうちに来る」

「またねぇ~」

 三人は宿の女将に見送られ、崑崙山へ向かう道を歩き始める。

 宿から離れた場所で一度足を止め、辺りに人が居ないことを確認すると道端の叢に入った。白福バイフーが再び妖怪の姿に変化する必要があるのだが、身につけている衣服を損傷させない為には一度全裸になるか、猫と同じくらいの大きさになる必要があるからだ。

白福バイフーの裸はダメだ!コンプラ違反になる!」

「こん…なんの事だ?」

「とにかく猫になろう。それがいい。そうするべきだ」

「はると…酔って頭打ったの…?」

「俺はすこぶる元気だぞ」

「…白福バイフー、また驚かせた方がいいか?」

「今度のは大丈夫だよ!見てて…」

 白福バイフーが胸の前で両手を合わせ、「むん!」と力を入れた後跳躍して宙返りをする。

 先程まで白福バイフーが着ていた衣服が空中に散らばり、地に落ちると服の隙間から何かが蠢き出てきた。ちいさい黒い毛玉のようなものが、か細い声でみいみいと鳴いている。

「子猫じゃん!」

『小さくなりすぎた~!』

「なんだよお前ちくしょう…かわいいな…」

「ふふっ…おいで」

 暁八雲シャオ・バーユウまで真顔になりつつ、子猫と同じ大きさになった白福バイフーを抱き上げ、腕の中で不器用に撫でた。その間に陽斗は落ちている衣類を急いで回収し、小さく畳んで鞄に詰め込む。最後に回収した暁八雲シャオ・バーユウ白福バイフーに貸していた髪紐を、陽斗はこっそり自分の手首に巻き付けた。

「よしよし。シャオさんもニャンコの可愛さを思い知ったか…はぁ~いいね最高の笑顔だ…」

 子猫を愛でる暁八雲シャオ・バーユウにカメラを向けるような仕草をしながら、いつか彼を被写体にできる日が来ないものかと陽斗は苦笑いを浮かべた。スタイルのいい赤月ならば、どのようなポーズをさせても様になりそうだ。しかしそれを果たすための道のりは、相当長いだろう。

「この大きさになった白福バイフーは初めてだ。しかし…悪くない」

「素直に可愛いって言えばいいじゃん」

『おいらは可愛くないぞ!』

 白福バイフー暁八雲シャオ・バーユウの腕の中から逃れるように飛び降りると、地面に着地しぷりぷりとしっぽを振って背中の毛を逆立てる。子猫の周りに渦巻くような風が起きると白福バイフーを包み込み、その大きさが肥大するに連れて白福バイフーの影も大きなものへと変わっていく。渦巻く風が止むと、陽斗が彼と出会った時と同じ体躯になっている白福バイフーが現れた。

『やっぱりにんげんの姿は疲れるなぁ…』

「おおきくなったおまえも可愛いよ。もちろん格好いいのもあるけどな」

『えっへん!』

「…よし、荷物を載せたら再出発しよう」

 いつもの彼に戻った暁八雲シャオ・バーユウが来た時と同じように、鞍と鐙を取り出して、白福バイフーの背中から腹にかけて括りつける。

 荷物を載せ終えると先に陽斗が乗り込み、手を差し出して暁八雲シャオ・バーユウを自分の前に座らせるべく引っ張り上げた。

「…おまえの背中は俺が護るよ。暁月シャオユエ

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